不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第1章

2019年2月4日

第一章   古き良き子ども時代

 私は絶対にヘンプアクティビスト(大麻解放運動家)に成るような、ましてや人類を癒す究極の自然薬が発見できるような人間ではなかった。しかし、人生は分らないことだらけで、運命の道がどこに続いているかなど、我々には知る由もない。私は1949年11月30日にノバスコシアのスプリングヒルにあるオールセインツ病院で生まれた。昔のカナダは今のカナダとは全く違っていた。まあ私達が生きるこの世界は往々にしてそうなのだが。当時は呼吸する空気さえ、今とは全然違っていたような気がする。今や失われてしまった自然の馥郁たる甘い香りが、あの頃はまだ残っていた。けれども現在は、大気汚染が実際にはどれ程進んでいるのか、正確なところは分らないのだ。
 当時、人々は生活を立てるため必死に働いていたが、大抵皆今よりフレンドリーでお互いを気遣って生活していたし、未来は明るく輝いていた。1950年代と1960年代のノバスコシアで犯罪などほとんど聞いたことがなかったし、皆車のキーはつけっぱなし、家に鍵をかけることさえ珍しかった。犯罪は自分達とは関係のない、どこか遠い所の出来事だった。私は幼少期をスプリングヒルの町から4マイル程はなれたソルトスプリングスと呼ばれる田舎で過ごしたが、子供の頃はただ町に行くことでさえ、ビッグイベントだった。
 私が若いころ、スプリングヒルは荒くれ者の鉱山街だった。坑夫たちは激しく働き、激しく遊んだ。喧嘩がしたい奴はスプリングヒルならすぐ相手が見つけられただろう。私はスプリングヒルの評判を悪くしたいわけではないが、当時はどこの町でも「類は友」で、態度が悪いと同じような連中に必ず出くわしたものだ。ただし、これは今とは違う時代の話であって、時代とともに物事は大きく変化してきた、良い変化の方が少ないにしろ。
 とりわけ幼少時代の記憶として残っていることは、地域に住む人たちとの繋がりだ。毎晩近所の人が訪ねてくるか、こちらから彼らを訪ねたものだった。1950年代に父が明かりをともすため電気を引くと、しばらくしてテレビが流行した。1954年ごろ、父はどうやったのか、テレビを買う資金を集め、当時私たちがいた田舎で初めてテレビを買った。
 最初、テレビは素晴らしいものに思えた。夕方には、それまでよりさらに多くの近所の人達が訪ねてきて、当時やっていた番組を見ていた。すぐに、皆が自分のテレビを買うようになって、隣人が訪ねてくる回数はめっきり減った。そうと解るまでかなり長い年月を費やしたが、テレビは今まで発明された物の中で、最も間違った使われ方をされた、最も破壊的な機械なのではなかろうか。メディアが引き起こす無関心が、かつて私たちがお互いに対して持っていた繋がりを断ち切る役割を演じたのは間違いない。さらに悪いことに、この機械は大規模な洗脳の道具としても使われてきた。我々はテレビで見ることを日常生活で模倣しようとしている。つまり、我々の言動を最もよく言い表している言葉は「猿の人まね」だろう。
 私の子供時代は非常に幸運だった。両親はとても分別があり、優しかったし、私に宗教を押し付けず、自由に考えるように育ててくれた。私の父は政府など無用のものだと思っていたふしがあり、当時の私には理解できなかったが、こんなことを言っていた「第二次世界大戦から戻ってきて犯した最大の失敗は、みんなで一丸となってオタワに行き、物事を真直ぐに正さなかったことだ。」父のような一個人が、その時でも、何かがなされなければならないと認識していたのだ。だが今日と同様、人々が集まり立ち上がって行動を起こすことはなかった。その時の私は、父が言うことを少ししか理解していなかったし、そんな父の言葉をなんだか理性的ではないと思っていた。
 ノルマンディーでの4日間の戦闘の後、ドイツ軍の手投げ弾の破片で負傷した父は、その後ひどい不自由を一生背負うことになった。父は他の大勢の兵士と同様、カナダと自由のため勇敢に戦ったが、この国を動かしている人間達にはすっかり幻滅していた。政府に対する不信の種を私に植え付けたのは父である、と言っても過言ではないだろう。父が教えてくれたことは、今日の私という人間の形成に大いに影響を与えた。人生を通じて私と父はとても親密だったが、ここに優しくて愛情深い母親がいたことも、ちゃんとつけ加えられねばなるまい。私に染みついている価値観は、母の躾に依るところが大きいだろうし、私は死ぬほど母を愛していた。良い親を持つということは本当に幸せなことだ。
 私が子供だった1950年代にはスプリングヒルの町に衝撃的な出来事が多発した。1956年、第4炭坑で恐ろしい爆発があり、私の知る子供達の多くが父親を亡くした。1957年には大火事がメインストリートの商業区域を焼失させ、さらに多くの人達を失業させた。当時の私は、町にある学校に毎日バスで通っていたが、幼心にスプリングヒルの街を見て、まるで戦争で破壊され尽したかのようだと思ったものだ。
 1958年には第2炭坑で落盤事故という大参事が起き、またもや多くの命が失われた。「落盤」や「岩盤破裂」といった用語は、採掘中のエリアで支柱や壁の爆発的な崩壊をまねく、鉱山で発生する地震のことを指して使われていた。もし、炭坑で働いていて不幸にもこれに巻き込まれたら、生き残るチャンスは万に一つだ。この事故でさらに多くの子供が父親を失い、スプリングヒルの町には雇用を生む産業がほとんど無くなってしまった。まるで町は呪われたかの様相を呈し、程なくして、人々は他に仕事を探して町を出て行ってしまい、家々は一秒ごとに空き家になっていくかのようだった。
 1950年のスプリングヒルは人口7000人だったが、1960年までにおよそ半分になってしまった。何もしなければ、そのうちスプリングヒルがゴーストタウンになってしまうのは明らかだった。ちょうどその時、新しい連邦刑務所が、スプリングヒルの郊外に建てられることになり、町は少しばかり回復の兆しをみせ、ゆっくりと立ち直りはじめた。
 私が12歳の時、田舎にあった家を火事で失った。父は所有物に掛けていた少しばかりの保険金を受け取り、スプリングヒルに家を買った。言うまでもなく、十代の若者としては町に引っ越すのは嬉しいことだったが、新しい環境に慣れるのには多少の時間がかかった。いつの時代でもそうだが、いじめっ子達は新参者を小突き回すのが、自分達の義務だと考えていたのだ。しかし大抵の場合、田舎育ちの私は、体格の割にかなり鍛えられていたため、彼らにとってそう簡単にはいかなかった。当時私は12歳といえども、成人の男が持ち上げられるものは、大抵持ち上げられる程であったから、大概は彼らに放っておかれた。
 子供時代を通じて、町に引っ越して7年生になるまで、私は教科書を開いたことがなかったが、全ての科目でテストは100点またはA+だった。4年生の時だったが、教師が私ともう一人のエリック・ハンターという生徒に、5年生を完全にスキップする飛び級の話をした。諸々の事情からこれは実施されず、エリックと私は他の生徒とともに、1年ずつ進級した。7年生になった私に何が起こったのか説明するのは難しいのだが、私は学校に対して完全に興味を失ってしまい、かろうじて8年生に上がる事が出来た。私は自分自身に「8年生に上がったのだからしっかりやらないと」と言い聞かせたことを憶えているが、どんなに頑張ってみても、必要とされる程の興味を呼び起こすことができなかった。私はいつも心ここに在らずといったふうで、当今の医師には「注意欠陥障害」だと診断されたことだろう。そして彼らはこの想像上の病気の治療として、リタリンなどで私を薬漬けにしたはずだ。
 幸運なことに、私が学生だった頃は誰もADHDなどという病名を聞いたことはなかった。しかし今日、成り行きでこの薬物治療と呼ばれるものを強いられている子供たちには本当に同情する。大麻精油であるヘンプオイルが無害であることを知っている現在の私の認識では、多動症の子供や注意力に問題がある子供に対しては、オイルのほうが望ましいだろう。危険な化学物質を使うことは、後々の人生に問題をもたらす原因となりかねない。もし、当時ヘンプオイルによる治療が可能であったなら、先生たちが教えようとしていたことを、子供の私はもっと簡単に受け入れられたに違いない。
 私も十代の若者の例に漏れず、同じクラスの女子が日増しに女らしくなっていくのに気がついていたから、それで気が散っていたことも認めざるを得ない。私は8年生で二年間を過ごし、ぎりぎりで9年生になった。当初、9年生では少しましだったが、またもや学校での勉強に興味を持ち続けるのがほとんど不可能になった。このとき学校で唯一楽しかったのは、森林作業の授業だけだった。その年、新しい工作の先生が着任したのだが、彼は素晴らしい指導者だったので、私はクリスマス前に他の生徒達からカンパを募り、24パイントのビールをクラスからのプレゼントとして送った。
 クリスマスから一カ月ほどして、私達のクラスが彼にプレゼントをしたことが、他の教師達の知るところとなり、彼らはそれを不適切だとみなした。3人の教師たちが教室に入ってきて、我々がした贈り物のことで怒鳴り始めた。そこで、私は立ち上がり、私に責任があることを彼らに話した。彼らは私を廊下に連れ出し、その上で、私がどのようにしてビールを手に入れたのか訊き出そうとした。私が未成年だったので、自分で購入することは不可能だったからだ。私は彼らが知りたいことを話すのを拒んだ。勿論彼らは更に激怒し、私に向かって叫び始めた。大目玉を食らわそうというつもりだったのだろうが、私はもう十分聞いたと思ったので「そんなに怒っているのは、自分達がプレゼントを貰えなかったからで、もう少し厳しくすれば、きっと貰えると思っているからだろ」と言ってやった。それから私は踵を返し、玄関から出て行った。そうして、この形態の学問の世界に背を向け永遠に決別した。
 私にビールを買ってくれた男はすで他界しているので、彼の名を明かすのに問題は無いだろう。カルメン“プーキー”レジェレが私にビールを買ってくれた男である。私が彼を密告しなかったおかげで、彼は亡くなるその日まで友達でいてくれた。先生のためのプレゼントを入手するために私を手伝ったからといって、プーキーは犯罪者ではない。彼はスプリングヒルが輩出した市民の中で、最も愛された思い出深い者達の一人である。
 学生時代に良い思い出を見出す人は多いのだろうが、私は違う。私にとっては、学校にいるほとんどの時間は退屈だった。そこで過ごす時間が終わるのが待ち遠しかった。もし4年生の時に飛び級をしていたら、もしかすると、私のの興味は保たれたかもしれない。しかしそれは起こらなかった。他の学生達には有効なようだから、私の注意力の欠如が全て学校システムの責任であったと非難するのは、公平でないかもしれない。それでも私は現行の教育システムは多くの若者の心に届いていないと感じているし、他にもっと適切な方法が存在するはずだと考えている。私にとっては学校を去ったその日が新しい人生の始まりであり、いわゆる「働く男」になれることが待ち遠しかった。
 学校を去る二か月前に十六歳になっていたので、既に就業可能年齢だった。数日のうちにカナダ横断高速道路の公道用地の木を伐採する、35人ほどの作業員の一団に雇い入れられた。この時の給料は総計すると時給1ドル10セントだったが、今のほとんどの人たちはこんな仕事を想像もできないだろう。我々は体重の3倍もある丸太を肩に担いで、深い雪のなかや油断のならない足場を進み、時には75m離れた集積所に運んだ。極端に過酷な力仕事だった上に、最も懸命に働く作業員だけが支払名簿に残り、給料をもらうことができる。この仕事を始めてから4か月目の1966年5月には作業員は4人しか残っていなかった。他の皆は怪我をするか解雇されてしまっていた。
 ちょうど我々の担当していた区域が片付こうとしていた時だった。私は効率的でもっといい仕事をする役馬やトラクターに、直に取って代わられるこんな仕事に未来は無いと判断し、他の仕事を探そうと決めた。これに先立つ2、3年前にいとこのデイヴィッドがオンタリオ州トロントに行って、仕事を探すのに成功していた。この「デイブ」は私の3つ年上だったが、私たちは田舎で一緒に育ち、私は彼を兄のように慕っていた。当時、我々の地域からも、沢山の人がトロントに仕事を求めて入っていた。大都市に出て一山当てるのが、友人達との話題の中心であり、ときには何時間も語り合ったものだ。
 皆いい車を買って、自分達の町にはないような何かをくれる場所を夢見ていた。私はこの地方のダンスが好きだったし、他のイベントも楽しかったが、何より全ての友人がここにいたから、出ていくのは難しいと思っていた。それでも、全ての物事には〝終わり〟があるものだし、この街にはほとんど仕事が無かったから、トロントが答えのような気がしていた。デイブはトロントで成功していたので、同じ様にやれるだろうと考え、行くことを決心した。小さな町から来た人間にとって、トロントの大きさはショックだった。そこでの生活のペースはスプリングヒルと比べ、はるかに早く、いつでも何かすることがあり、参加するイベントがあった。
 私がスプリングヒルを出たとき、私の知る限り、誰もポット(大麻)を吸っていなかったし、アルコール以外のドラッグをやっている者もいなかった。確かにスプリングヒルは田舎だったが、それでも「ビレッジ」とも呼ばれる、トロントのヨークヴィル地区について聞いたことはあった。そこは当時、カナダのドラッグシーンの中心地だった。私はドラッグに関わりがなかったが、それが一体どういうものなのか興味はあった。当時のヨークヴィルには、Flick88やMyna Bird clubなどのコーヒーショップやクラブが数多くあり、私も遊びに行ったものだった。また、ヨークヴィルには見たこともないほど大きな警官達がいて、悪びれる様子もなく、人々を苛め回っていた。
 警察たちは、短髪で身形のいい私には注意を払わなかったが、ヒッピー達には本当に嫌な思いをさせていた。長い髪をしているだけで、即座に警察のターゲットにされた。今考えると全てが馬鹿馬鹿しい。当時のドラッグシーンは今の標準に比べたら、かなり〝おしとやか〟なものだったのは間違いないのだから。私が憶えている限り、数人の若者がこっそりポットを吸っていただけで、どういうわけか警官達は彼らを危険な犯罪者のように扱っていた。私には、自分がポットを吸わなかったこともあり、全てが不思議だったが、当時のヨークヴィルの活況はしばらくの間、私の娯楽としては充分だった。
 最初の車を買って全てが一変した。だが、それを走らせ続けるための十分な金を稼ぐことは不可能のように思えた。父は私に「できる限り車は買わないように」と戒めていたが、その訓戒は無視されたのだ。若くて強情だった私は、人の話を聞かず、例のごとく〝痛い思い〟をして全てを学ぶのだった。トロントには一年半とちょっといたが、当時のことは今でもよく思い出すことが出来る。
 1967年、ベトナム戦争が勃発し、友人の一人と一緒に、米軍に入隊して使命を果たそうと考えた。我々にとって、これは自分達の戦争のようだった。父は彼の戦争を1940年代に戦ったし、今度は自分の番だと思ったのだ。米軍に入隊すれば即座に米国市民になれる。当時、私はアメリカを世界で一番偉大な国家だと考えていたので、米軍に入隊することは魅力的に思えた。もし、あの本当に素晴らしい男の行動が無かったら、私は多分ベトナムのどこかの水田かジャングルで命を落としていただろう。
 父と私はずっとボクシングのファンで、特にモハメド・アリが私のヒーローだった。彼は今までグローブをはめた人類の中で最も偉大なヘビー級選手だったし、今でもそうである。当時、アリが米軍の徴兵を拒んだことが、私の注意を惹きつけ、再考させて、米軍に入隊するという私の計画を中止させた。当時は大多数が彼を臆病者と呼んだが、私は彼の徴兵拒否を違う視点で見ていた。はたして臆病者が、地上で最もタフな男達が待ち受けるリングに上がることができるだろうか?付け加えるならば、仮にアリが軍隊に参加したとして、彼が戦闘に参加する確率はかなり低いのだ。
 アリはヘビー級の世界タイトル保持者である。軍隊は彼をボクシングの興行ツアーに出すだろう、第二次世界大戦のときにジョー・ルイスにしたのと同じように。アメリカ政府が彼のような男を、前線に送り出すことなどありえない。アリの徴兵拒否は臆病風に吹かれたからではなく、この陰惨な戦争に反対したからであり、結局彼は正しかった。彼の個性の強さが、私のベトナム戦争に対する考え方を変えさせ、そういう意味で私の命を救ったのだった。モハメド・アリがそんな人であったことに、私はいつも恩義を感じている。私の目には、彼は全期間を通じて最も偉大なヘビー級ボクサーであっただけでなく、善悪の区別ができるとても賢い人間だということがはっきりと写っていた。
 当然の帰結として、遅かれ早かれ私はボクシンググローブをはめることになるのだが、それはオンタリオを離れて帰郷する、数か月前のことだった。私はインファイターとしては強かったが、顔でリードするので、大きな腫れと、酷い苦痛に耐えることとなった。初期のトレーニングでは確かに苦労したが、しばらくすると自分のタイミングを見つけられた。ボクシングはダンスに似ていて、一度自分のリズムを見つけてしまえば、あっという間に上達するのだが、同時に危険な人間になってしまう。顔面にパンチを全力で受ける代わりに、パンチを滑らせることが突如できるようになる。こうなると今度は相手の番で、こちらは簡単には打たれなくなり、反射的に効果的なブローをいとも簡単に入れられるようになる。
 私は持ち前の反射能力と、リズムに対する深い感覚を持っていたので、今や急激に、どちらの拳でも相手をKOしてしまうことができるようになった。私にとって、スピードバッグは確かに為になったが、それよりも、パワーパンチのためのサンドバッグでトレーニングするのが好きだった。左フックで相手をノックアウトすると、インパクトの瞬間に、パンチの衝撃が足まで伝わってくる。体調を維持すること、それと、自分の体ができることをコントロールすることは素晴らしいことだ。加えて、相手が繰り出してくるどんなパンチにも対応できるようになることも。
 ただし同時に、自分がトレーニングを受けていない普通の人間とは、最早異なる存在であることを自覚しなければならない。グローブをつけて、リングでスパーリングを行うときもそうではあるが、むしろ路上において、よくよく自分自身を見張っておかなければならない。詰め物がしてあるグローブがなければ、自分の拳で簡単に誰かが酷い怪我をすることになる。若いころは誰でも元気いっぱいだし、若さ故、堅い拳をアバラや顔にもらうまで、自分は傷つかないと思っている人間は多いが、もらった瞬間に自らの限界を学ぶことになる。
 帰郷するすぐ前あたり、我々は何人かでグローブ無しの不調法をやらかしていた。ある時、突然知らない男が私の前に来たので、軽い左ジャブで彼をKOしてしまった。軽いパンチだったし、当たった瞬間はバックステップしながらだったのだが、彼はぶっ倒れてしまった。幸運にして私が知る限り、彼には恒久的なダメージは無かったが、私は怖さに震え上がった「もし何時もしているように、彼を殴っていたら。」両手を見て、今やそれがどんなものかを思い知った。誰かを死に至らしめ、自分に大きなトラブルをもたらす危険な凶器。殴った男の目が頭の方にクルリとひっくり返り倒れていくのを見るのは、血の気が引く思いだった。
 時を置かず、私はノバスコシアに戻ってきた。トロントに発った時と全く変わらずのお馬鹿さんだったが、少なくとも、なんとか自分の身を守ることだけは学んできた。同様に、誰も自分が思っているほどタフではなく、誰でも間違ってパンチを受ければ、深刻な傷害を受けることも分かっていた。その時から私は、喧嘩の時は有利になるように、パワーと機敏さを駆使し、誰に対してもフルパワーのパンチは避けるようにした、特に頭には。だけれども、若い時分にはどうしても、トラブルに巻き込まれてしまうことが多々あるもので、状況によって、切り抜けるためには1、2発のハードパンチしかないこともある。
 皆が自己防衛の知識を持つことは、いいアイディアだと私は思う。但し、いつその能力を使わなければならないか、を知ることがさらに大切なのだ。通常は、誰かを傷つけることが避けられればそれが最善の行動だ。誰かを怪我させたり、死なせたりするのに足る打撃力をたまたま持っていたとして、そのために刑務所に行くなど賢いことではないのだから。誰であろうと馬鹿なことをする時があるものだ。そういう時、正しい道に引き戻すのは正しい言葉だけで十分だったりする。もし全ての人が、そのような制止が実践できたら、世の中は皆にとってより安全で生きやすい場所になるだろう。