不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第14章

第十四章   ヨーロッパへの招待

 2009年初夏までに、私は作業の為に必要な原料を使い果たした。この一帯の高品質なバッツを買い占めていたから、良い物が見つけられないと、私に腹を立てる大麻スモーカーもいたくらいだ。それから私は、オイルが完成次第できるだけ早く欲しい、という人達のリストを調整した。末期癌で死に直面している人間に、収穫時期まで治療はできない、と告げるのは非常に難しい。しかし、実際それは頻繁に起きていたので、大勢がこの問題に関する政府のやり方に腹を立てていた。そして私は皆以上にむかついていた。まあしかし、その時の私が、治療のために提供できるオイルを持っていなかったとしても、努力が報われたと感じる瞬間は何度かあった。
 ある日、私は自宅から230km程離れた所に住む患者を訪問し、トラックに給油するためガソリンスタンドに寄った。ガソリン代を払おうと店内に入っていくと、どこかで会ったような男がいる。彼が近付いてきて「リック・シンプソンさん?」と尋ねたので、そうだと返事したが、それでもまだ誰だったか思い出せずにいた。するとすぐに、彼の妻が現れこちらを見た。その瞬間彼女の顔が1000ワット電球の様に輝き、真っ直ぐ駆け寄って来て、私の身体に腕を回しギュッと抱擁した。彼女の顔を見て、家に来たことがあるのを思い出し、具合を尋ねた。「リック、一年前あなたの所に行った時、医者はあと2ヵ月の命だと言っていたのよ。今の私どう見える?」と訊き返されたので、私は答えて言った「今生きているはずのない人間にしちゃあ、良すぎる位じゃないか。」あまりにも多くの人達とやり取りしたために、全員の名前を憶えていないが、彼女が末期癌を患っていたことは憶えていた。そして今彼女は癌から解放されているのだ。このような瞬間は純粋に魔法のようであり、自分の活動に邁進する勇気を与えてくれる。
 この治療薬が違法であるがため、患者が私からオイルを得た後は、往々にして彼らからの連絡は途絶えてしまう。人々は治療のために私に連絡したり、オイルを摂取している間に、自らの経験を語ったりするのを恐れている様だった。これは現在施行されている、この治療薬の使用を禁止する法律のせいであることは言うまでもない。誰も体制と問題を起こしたくはないものだ。多くの人が、私の電話は連邦警察に盗聴されている、と疑っていたし、実際その可能性は十分あった。しかし、私にとってそんなことは何度も考えるに値しないことだった。もし連邦警察が聞きたいのであれば、聞けばいいのだ。彼らが聞くことになるのは、私の助力を文字通り、死ぬほど必要としている人々の会話だけなのだから。だがそうだとしても、オイルを使っている患者達の玄関にトラブルが訪れるのは望ましくないので、彼らに連絡を取り続けるよう強制しなかった。
 このオイルを使った人達の中で、その効果を自由に話してくれるのは、十人に一人位だ。大多数は私との接触を最小限にしていた。現状では、もし私が彼らの立場であれば、同じようにしただろう。大抵の場合、治療を求める患者から電話を受ける時、彼らはオイルを使ったことのある誰かの名前を上げるのだが、私はそこで初めて、オイルが奏効したことを知ることになる。この薬は宣伝要らずだ。それは全ての病気に対し、絶大なる効果を発揮するからであり、まして人の口に戸は立てられないのだ。
 どちらにせよ、この頃には全然フィードバックを必要としていなかった。なぜなら、基本的に全てのケースにおいて、オイルがいかに効果的か、既に知っていたからだ。それにオイルについて受けたクレームは非常に少なかったし、もし問題があるとすれば、大抵は患者が必要も無いのに飲もうとする処方薬が原因だった。オイルは、ほとんどの処方薬を代替する効能を有しているかのようだったし、それらに対する依存を、完全に終わらせてくれる。オイルを摂取し始めると、これらの有害な化学物質から可能な限り早く離脱できるのだ。これを続けているとオイルは患者を解毒して、彼らが摂っていた薬に置き換わり、有害な物質が身体から出ていく。
 治療薬としてオイルを使うことは、それが効果的で無害なことから、非常に有益であり、この薬物の治癒力は説明不能な程である。当初私は、オイルが単に病気を安定させている処方薬の代わりになるのだと思っていた。しかしすぐに、それが問題を安定させるだけでなく、治癒させていることに気付き始めた。私の所に来る所謂〝不治の病〟の人々は、今や健康体を取り戻している。高血圧、糖尿病、関節炎、クローン病、エイズ、癌、多発性硬化症、慢性疼痛、他にもまだまだある。これらの深刻な病気はオイルが介入すると断然容易に扱いやすくなる。
 この薬物は、全ての病気に奇跡を起こす能力があるように思われるが、それでもなお、人口の大部分が大麻に関して、システムの流してきたプロパガンダを信じ続けている。そして、多くの人が真実を拒絶するか、この治療薬の自由な使用を支持することに、全く関心を示さない。このオイルを使用した患者達は、カナダ全土に散在しているため、この問題に関心を引く為に十分な人数が一緒に活動するのを不可能にしている。それでも、オイルは日々、人々にどんどんその効果を証明しているから、この素晴らしい植物に対する戦いに、体制側は敗れようとしている。
 2009年夏、私は再びイェンツェフ・バイヤルから連絡を受けた。この時彼は「ヨーロッパ講演ツアーをやる気は無いか」と訊いてきた。この申し出を良く考えた末、ジャックに連絡した。私は忙し過ぎたので、今いる場所で時間を使うべきだ、と考えていた。ジャックはツアーのことを聞くと一も二もなく「リックやったほうがいい。そうすれば、より多くの人々に声を届けることができる。」と私を焚き付けた。当初このツアーにどこか乗り気ではなかったが、ジャックと話して気が変わった。その日の会話で、ジャックに一緒に来ないかと訊くと、彼は了承してくれた。私はイェンツェフにEメールを出し、もし彼が望むなら、ジャック・ヘラーも関わりたいと言っていると報告した。この提案は彼の心を大きく動かしたようで、ジャックがツアーに参加してくれるならこれ以上のことは無い、と直ぐに返信をくれた。彼は大麻研究家として世界的に高名な、ルミール・ハヌスが参加に乗り気だとも教えてくれた。ジャック・ヘラーとルミール・ハヌスがいれば、ツアーの成功は確約されたようなものだ。ルミールもジャックもチェコ共和国や、欧州の国々で非常に有名だった。私にはこれが何か大きなことの始まりのように思われたのだった。
 この時期、自分の祖父の癌をオイルで治療したという、一人の若者が連絡してきた。オイルは素晴らしい効果を発揮し、彼の祖父は今や癌から解放されていた。しかし彼は、自分達の家庭医の態度が信じられない、と私に話した。彼は私の忠告に従い、祖父を治療する為に彼が使っている物について、医者に話していなかった。そしてある日、主治医のオフィスに電話して、祖父の癌が治癒したことを伝えた。するとその医師は、何を使ってそうなったか知っていると言い、これが彼に大きな問題をもたらすかもしれない、と患者の孫に伝えた。
 「リック、僕は自分で聞いたことが信じられないんだ。僕のじいちゃんは完治したのに、医者は僕に怒ってるんだぜ。じいちゃんの命を助けるために、オイルを使ったってことを。僕は医者達の多くは、怪物だってことが分かったよ。だから今はそうじゃない医者を探している所さ」と彼は言っていた。医師がオイルの使用に敵意を持っている、という情報を患者が持って来ることは非常に稀だ、と言いたい所だが、残念なことに現実は正反対だ。本当に沢山の白衣を着た人間や他の専門家達が、この治療薬が自由に使用されないように頑張っている。私の目には、この自然薬に対する彼らの言動は、偏に収入と地位を守りたいという欲求に端を発している。もし実際に私が言っていることが正しければ、これらの人々は我々全てに対して、恐ろしい犯罪に手を染めていることになる。そして、彼らの同胞に対する非人間性は、留まるところを知らないようだ。
 明らかにこの問題は、ヨーロッパの出版界ではよく扱われていたが、今まで北アメリカでは全く取り扱われてこなかった。2009年夏の終わりに向けて、ハイタイムズ紙のスティーブ・ヘイガーがノバスコシアに来ることを決め、私の活動を取材することになった。我々は待ち合わせをして、彼をハリファックスの空港に迎えに行くことにしたが、約束の時間になっても、スティーブは現れなかった。最終的に分かったのは、彼が税関で引き留められていたということだった。4時間経って、漸く彼は解放された。それからスティーブは記事を完成させるため大忙しだった。税関で次の便に乗って合衆国に帰るよう、命令されたのだ。次の便は翌朝午前6時発だった。
 元々彼の滞在は3、4日の予定だったが、カナダ税関職員のおかげで、8時間しか一緒に作業できなくなってしまった。まずスティーブを自宅に連れて来て、この薬の素晴らしさを体験した人達にインタビューしてもらった。我々は大急ぎだったので「こんな調子で、このテーマについて理解可能な記事を、この人にどうやって書けというのだ?」と思わずにはいられなかった。その日の夜、スティーブと私はこのオイルとその使用について、空港のホテルに彼を送るまでの間、数時間話し合った。数日の内に、スティーブは電話をくれ、彼がまとめた記事を読み上げてくれた。状況に鑑みても、彼はどうにかあまり間違いのない、まともな記事を形にしていた。それから彼はハリファックスにいる写真家と調整して、ハイタイムズ紙が必要とする写真を撮らせるために、私の所に派遣した。
 その写真家はとても素敵な女性だったが、彼女が裏庭に生えている物が何か気付いた時の反応には、笑うしかなかった。「これって私が考えている物よね!」と彼女が訊いたので、私は答えた「そう、これは大麻だよ。」「でも、違法でしょ。」「確かにね、でも、自分の命が危険に曝されていて、この植物からとれる薬で助かるのだとしたら、誰が違法性を問題にするね?」そこで彼女にこの植物の精油に何ができるかを話した。大いに興味を掻き立てられた様子だった彼女は、多くの写真を撮影し、私の家に来た人々と話していった。つまりオイルを使って病気の治療に成功した人達だ。その日家を去る時、彼女が多くの情報を得て帰ったのは確かだ。真実を理解した彼女は、我々の活動に非常に協力的になってくれた。
 9月までに、私の治療を待つ患者は長いリストになっていた。彼らにとって幸運なことに、地元の栽培者が、相当量の早生の収穫を持ち込んでくれた。9月1日、私は凄まじい勢いで薬を製造し始め、あっという間に持ち込まれた全ての大麻はオイルになった。栽培者は代金を得、患者は治療を受け、皆ハッピーだった。9月一杯かかったが、月末には治療待ちの患者リストを消化することができた。しかしながら夏の間、治療を待っていた患者が数人亡くなってしまっていた。だとしても、何はともあれ9月末には、長い間この薬を待ち続けていた残りの人達全員に、オイルを届けることができた。
 6月末に裏庭に植えられた作物は順調だったが、本当はもっと早く植えられているべきだったので、丸一ヵ月間、生育が遅れていた。9月下旬には作物は平均で1.8mから2.4m程あったが、花穂を形作るのは非常にゆっくりだった。その年の9月、警察と軍隊はまたもヘリコプターで飛び回って、大麻を捜索していた。我々の血税を費やして。自宅から3、4回、彼らがヘリで行ったり来たりして、近隣を捜索するのが目撃された。彼らの飛行を観察するに、どうやら、現在私の名義になっている1500エーカーの所有地には、入らないようにしているようだった。大麻は私の家から数メートルの所で、露地栽培されているのだから、彼らがそこに作物があると知っていることに、疑問の余地は無かったが。
 前年まで、彼らはいつも家の裏庭を調べるためにヘリコプターを差し向けていたし、それが一度きりで済むことはまずなかった。挙句の果てに、トム・ヤングのラジオ番組で警察を含む大勢の人々に、大麻を植えたと公言したのだ。もし警察が大麻を探しているとしたら、最初に手を付けるのは私の所有地だろう。調べる時間は取れなかったが、状況から察するに、このフリーマンオンザランド運動が何か関係しているのだろうか?他に警察が近付いて来ない理由は考えられない。ここに来て私は、全ての茨の道を経て遂に、古来の慣習法システムが私の問題の解答なのではないか、と考え始めていた。この「土地の自由人」だと宣言する書類を得る事ができれば、慣習法の支配に戻ることができるのだ。結局、私のような人間は、慣習法のルールの下であれば、カナダにおいて小さな自由を見つけることができるのかもしれない。現行の我々のシステムは、我々の権利を出来るだけ隠そうと手を尽くす。真実を知るには確かに幾何かの労力を要するにせよ、どうやら慣習法の司法体系が、私のジレンマを解決してくれそうだった。
 丁度9月が終わろうとする時、私はジャック・ヘラーが心臓発作に倒れたとの知らせを受けた。その前の週、ジャックはヘンプラリーのイベントに参加しスピーチをするために、アメリカ全土を何千キロとバンで移動していた。ジャックの年齢で、デリケートな健康状態にある人間は、そんな事をすべきではなかったのだ。しかしこれが、絶えず目標の為に戦ってきたジャックのやり方だ。彼はどんな状況にあろうとも、人々に自分のメッセージを伝えなければ、という信念を持っていた。当初、彼の状態が、実際どれほど深刻なのか知らなかった。私が受けた報告では、彼は病院にいて、意図的に誘導された昏睡状態にあるということだった。2、3日後、脳スキャンで彼の脳が全く活動していなかった、ということを知らされた。私は「彼にオイルを与えるんだ!」と叫んでいた。そして、どうやったのか、彼の周りにいる人達はそれに成功した。数日が過ぎ、私はまた電話を受けた。ジャックはまたスキャンを受けたということだったが、そこでも脳の活動は見られなかった。電話をくれた人は「そのスキャンの結果にオイルが影響を及ぼしたと思うか」訊いてきた。彼らはかなり多量のオイルを投与していたため、私は「オイルは深いリラックス状態を誘発するから可能性はある」と話した。
 さらに数日後、私は医師達がジャックを昏睡状態から戻そうとしているが、上手く行っていないと聞かされた。そこで私は、ジャックにオイルを与えている人間に、投与量を下げるよう指示した。彼らがそうすると、ジャックは昏睡状態から戻って来て、皆が驚いたことに、良くなっている様子だった。私は、ジャックは心臓発作を起こしてから、半時程の間、脳に酸素が行かない状態だったと知らされた。一般的にこんな長時間、脳が酸素の供給を断たれた場合、大きな損傷が起こり、当人が生き残ったとしても、回復の望みは少ない。しかしながら、ジャックは喋ろうと試み、部屋を動き回る人々の動きを目で追っていた。この事実は、友がその受難の後で復帰を遂げられるかもしれない、という望みをくれた。彼は2回の脳スキャンで脳活動が無いと言われたが、今や彼は目覚め、改善さえしているのだ。私には、ヘンプオイルの奇跡の一つが進行中のように思われた。皇帝は未だ我々と共にあり、それはこの上なく喜ばしいことだった。
 ジャックの心臓発作の一報を受けた時、私はチェコの講演ツアーを、危うくキャンセルしかけた。全てが起きて後、私にはどうしたらいいか分らなかったのだ。だが変に思われるかもしれないが、私には確かにジャックの「やれ」という声が聞こえた。皇帝の言葉には従わねばなるまい。そこで私はイェンツェフに何が起こったか連絡し、ジャックが参加できなくても、計画を進めることに決定した。
 ジャックが倒れて数日後、カリフォルニアのある女性から電話を貰った。彼女は映画製作について話していた。まるで私がそれについて全てを知っているかのように話したので、一体何の話か分らないと告げた。すると彼女は自分がメリッサ・ベイリンであると自己紹介したが、私が彼女の事を何も知らないことに驚いた様子だった。彼女は声を張り上げて「ジャックはあなたに私の事を何も話してないの?」と訊いたので「申し訳ないが、何一つ聞いとらんよ」と答えた。それから彼女は、彼らがジャックの本を元に映画を作ろうとしていることを説明し、私に出演して欲しいと言った。「あなたは11月のカナビスカップに参加して、セミナーを行うの。そこに私が同行して全部撮影するのよ。」
 私はこんな事は全く知らされていなかったし、ジャックもこれについて一言も触れなかった。多分彼は、私を驚かそうとしていたに違いない。そうであれば、彼はまんまと大成功したことになる。それから彼女は、チェコツアーについて訊いてきたので、私はまだやる気でいることを伝えた。「それにも同行して、撮影ができたら最高だわ。」と彼女は提案してきた。私は、そのツアーはカナビスカップとは何の関係もない、と説明したが、彼女は記録映像を撮っておくのは、素晴らしいことだと言ったので、その提案を考慮し「そうだな。あなたが撮る記録映像のコピーを私にくれて、そのいくつかをインターネットで紹介できるのであれば、イェンツェフと話して、あなたの分の出費が捻出できるか確かめてみるよ。」と返事した。「そうしてもらえたら、最高だわ。」と彼女は言って電話を切った。
 事ここに至っても我々はよく、どこで科学的証拠を見つけられるのか、と尋ねる人々から連絡を受ける。もし、私がこの分野における最も偉大な研究者との記録映像をインターネットで公開すれば、このような質問への回答は、容易になるに違いない。それに人々のこの治療薬に対する信念を、より強化することにもなるだろう。私にはこれが誰にも損のない状況に思えた。我々はお互いに望んでいる記録映像を得ることができるし、皆にとっても喜ばしいことになる。それで、私はイェンツェフに連絡してメリッサと、ジャックの助手のチャック・ジェイコブスがツアーに同行できるよう調整した。
 それから少しして、私はスティーブ・ヘイガーから電話を貰った。スティーブもジャックに起こった事に対して、打ちのめされていた。彼は言った「変に思わないで聞いてくれリック、数日前にジャックと話したんだが、自分に何かが起こると知っていたみたいな口ぶりだったんだ。自分に何かあったらバトンはあんたに託すと、そう言っていたよ。我々はあんたにジャックの後継者としてカナビスカップに参加してもらいたい。そこで我々はあんたに本年の自由の闘士賞を授与する予定だ。」
 カナビスカップに出席することになっているのは、メリッサから教えられたばかりだったが、スティーブと話すまで、彼女が言ったことを本気で信じていなかった。彼らが授与してくれる賞は、私にとって非常に光栄だったが、心の中では、私を含めジャックの後を継げる人間など誰もいない、と思っていた。私はできることに全力を尽くすが、ジャックの代わりに相応しい人間ではない、とスティーブに言った。スティーブも私も知っていたが、誰であろうと、そんな単純にジャック・ヘラーの後継者になれるわけがない。しかし、この状況下では、私に選択の余地はほとんど無かった。
 ここしばらく、ジャックと私は非常に仲が良かったが、大抵の場合、大麻解放運動の他の有名人達は、私が何者で何をしているのか、全然知らなかった。その時点での私は実際の所、自分が大麻解放運動に関わっているとさえ、余り感じていなかった。私はただ薬を作って配っているだけの人間だ。もしカナビスカップに行き、参加者に自分がジャックの穴を埋めるのだと言ったら、大勢が私の存在で感情を害するかもしれない。何年もの間文句無しで、ジャックは運動のリーダーと認められていた。その時の私は、ジャック・ヘラーがどれ程深い尊敬を集めているかを、理解していなかった。彼が望みを人々に語ると、彼らはそれを聞くのだった。彼らは大した理由も無く、ジャックを〝皇帝〟と呼んでいるわけではないのだ。色々な所でその偉業は伝説の域となっており、それは彼に相応しい称号だった。その時点では実質的に無名であり、どこから出たとも知れない、私のような馬の骨が、大麻解放運動のお偉方に向かって「今日からジャックの後を継ぐのは私だ」と宣言するのは、どこか滑稽にさえ思われた。私はこの植物の医薬的使用を説明するだけではなく、ジャックの代わりに話すものとして、その価値がある人間だと、大麻解放運動家達に明らかにしなければならないのだ。
 その時私の知る限り、ジャックの経過は良好だった。運が良ければ、すぐに皇帝は病の床を脱し、座るべき王座に返り咲くだろうと思っていた。ジャックは自分がいない間、私に代打を望むことは分かっていたので、彼が戻るまでの間、その意向に沿うだけだった。あまりにも沢山の事が短期間に起きたので、私は圧倒されそうだった。この時は現実に頭をめぐらすのに苦労した、それが本当に現実であると認識するのにも。何年もの間、私は色々な場所を駆けずり回り、自費で個人や団体に話をしてきた。だが、私の労力が与えたインパクトは小さなものだった。それが今や、チェコ共和国の人間が私をヨーロッパに飛ばそうとしていて、私が行って講演ツアーをするのであれば、その費用を全額持ってくれると言っているのだ。それなのに母国であるカナダは、逆に大金を投じて、私がしている事を伏せておこうとする。
 人生で一度もヨーロッパに行ったことが無いという事実も、私を不安にさせていた。自分の地元であればへっちゃらだ。一方で私は、自分を演説家だと思ったことは無かったので、引き受けた重荷が自らの腕に見合っているだろうかと、本当に不安になった。ここカナダにおいてさえ、自分の言葉を広げるのに十分すぎる苦労をしているのに。ヨーロッパでは、言葉の壁から通訳が必要となるだろうし、私は今まで通訳を付けたことが無い。自分を表現するのが、難しくなるだろうことは予想できた。これに加え、現地の言語を話すことができないということも、来る講演旅行に対し、私をかなりナーバスにしていた。
 ヨーロッパ旅行に当たり、私が直面している深刻な問題の一つは、自分の薬を持って行けないということだ。向こうに着いてから、どこで必要とする薬を手に入れればいいのだろう。いくらか持って行くことを試みることはできるが、どこかの空港で見つかったとしたら、トラブルになるどころの騒ぎではない。しかし、幸運なことに、この問題はイェンツェフによって既に考慮されていた。私の到着次第、薬が提供されると請け合ってくれた。彼らは有言実行で、飛行機がプラハに着くなり、私の医学的必要性を満たす高品質のオイルを、いくらか提供してくれることになる。
 ヨーロッパはとても重要だと話してくれたジャックは、例のごとく正しかった。彼はヨーロッパとそこに住む人々を愛している様だった。彼は言っていた「リック、お前さん本当に分かってないようだな。あちらでは物事が全然違うんだぜ。」もしツアー直前にジャックが倒れていなければ、彼の同行は私の心をもっと和らげてくれていたに間違いない。しかしジャックの参加は叶わなかったにしても、まだツアーは素晴らしいものに思えた。ルミール・ハヌスが同行することになっており、我々が講演を行う予定が、数多くの会場で組まれていた。
 地元の仲間達はこのツアーに興奮を隠せなかったが、実際に私が旅立ってしまうのは悲しいようだった。しかし、彼らが望もうと望むまいと、自分の言葉を広げるためには、これをやるしかないのだ。2009年10月初め、私は来るべきチェコツアーのための準備をしていた。それと同時に、帰って来た時の対応待ちの患者のことを考えていた。今や人々は文字通り、行列を為してやって来ていた。4、5人が一度に来ることもざらだった。私は過去の経験と、オイルを求めてやって来る患者の増加から、地元周辺の大麻供給をすぐに疲弊させてしまうだろうことは分っていたが、それでも、来るツアーと11月のカナビスカップを終え、アムステルダムからカナダに戻った暁には、今まで私に門前払いを食らわせていた扉のいくつかも、すぐに開くことになるだろうと考えていた。
 私には、ゴールが間近に見えていたし、直にこの薬が合法的に手に入るようになる、と期待を抱いていた。警察は私に近付こうとしなかったし、私はこの「土地の自由人」であり、自宅の周りには自分の支配する所有地がある。その上、私の名前で大きな額の債務保証契約が締結されており、それは私を守ってくれることになっていた。今や全世界が急速に、この植物の治癒力について、私が言ってきたことが真実であると、認識し始めたようだった。これを順風満帆というのであろう。
 その時私はセミナーを始めてから4年しか経っていなかった。この時期、私の話を聞く聴衆の規模は、大抵こじんまりした物だったが、チェコツアーとカナビスカップのそれは段違いになることが分かっていた。私は少しナーバスになっていた。カナダでセミナーを行うのすら、最初はかなり緊張したものだ。
 一度ノバスコシアのディグビーでセミナーをするため運転していた時、一緒に来ていたリック・ドゥワイヤーに訊いた「ディグビーの人達は、私がやっていることを、認識だけでもしてくれているだろうか?」このテーマについてセミナーをするために、自宅から数百キロ自動車を運転して来ていたが、参加者はそのテーマについて何も知らないか、知っていても少しだろう。家には既にカナダ中から大勢の人が訪れていたが、ディグビーは私の所からかなり遠いこともあり、観衆の中に、過去の患者がいることはないだろう、と考えていた。その日、ホールが満員になったとき、私は見覚えのある顔を5、6人認め、緊張が和らいだ。
 セミナーが始まってすぐ、ある老人が手を上げて言った「あんたは儂のことを憶えとらんだろうね?」私が「数か月前に私の家にいらっしゃいましたね。確か前立腺癌を患ってらした。」と応じると、驚いた様子で言った「その通りです。」「あなたの癌はどうなりました?」この様な瞬間は、何が飛び出すか本当に分らないものだ。彼は指示に従って適正にオイルを使用した人かもしれないし、若しくは指示を無視して、講演に味噌を付けるために、そこにいるのかもしれない。それはどこか張りつめた瞬間だったが、彼は口を開いて、私の指示通りオイルを摂ったことを明かし、6週間で癌が完治したと教えてくれた。聴衆の誰かからこのような発言があると、そのセミナーは途端に活々としたものになる。
 今度はヨーロッパに行き、このテーマで講演をしようとしているが、ヨーロッパでは、私が作り出したオイルを使った者は誰もいない。私は外国にこのオイルを送ったことが無い。それを禁止する法律があるためだが、もし送っていたら、今頃は刑務所暮らしをしていたことだろう。ヨーロッパでは私の知る生き証人がいないわけだから、私の発言を聴衆がどのように受け止めるか、見当もつかなかった。話を聞いてくれるのかトマトが飛んでくるのか。今出来る事は、起こる事を受け入れて、自分の言わんとすることを、理解あるヨーロッパ人達に分らせるため努力するだけだ。
 航空券とパスポートは揃ったし、出発に必要な物は全て整っている様だった。裏庭に育つ大麻草は収穫には程遠く、プラントにはバッツがほんの少ししか実っていなかった。過去に私は、バッツの少ない小さな花の塊が、2、3週間で大きく美しいバッツに育つのを見てきた。ヨーロッパにいる間に少し天気が良ければ、バッツに太る時間を与えられる公算が高い。3週間後に私が帰った時には、丁度刈り入れ時となっているはずだ。念のため、私がいない間に作物を見守る算段がつけられた。全ては制御下にあり、ツアーが順調に進めば、その先は大した苦労をしなくて済みそうだった。
 ここまで長年、カナダ政府とその支配下にあるもの全てが、この件の行く手を遮って来たのを見てきた。彼らは私に犯罪者のレッテルを貼り、彼らを信用する無辜の人々が苦しむに任せ、人々が死ぬのを放置してきた。私にとってカナダ式の政府も、彼らの医療システムも司法システムも無用の長物だ。しかし、これからすぐに世界が私の心情を知ることになるだろう。