不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 終章

終章  理性の時代の父と如何にして出会ったか

 1992年8月末、私は二十歳の誕生日を祝った時に初めて大麻を試し、そこから日常的に使うようになった。それは親友ヤン・ポスピシルとミロス・ドリンスキーの数年に亘るヘビーな同調圧力を受けた後だった。〝高等教育を受けた教師の息子〟の身としては、勿論、マリファナを吸って陰謀や〝システム〟について話す、このヒッピーと呼ばれる人間達について、何度も検討した。私はこのヒッピー的な生き方や、音楽にどこか好感を寄せていたし、何か繋がりを感じていた。ほとんどは本や映画の中の情報だったにせよ。私はチェコ共産主義時代の終わりに育てられたため、彼らのハイな状態よりビールの方が好きだと言って憚らなかった。それでも、私はいつも自分が育った小さな北モラビアのヴィドナヴァ村の生活とは、異なる生き方があるはずだと考えていた。
 私の父は学校で、市民権、音楽、英語、国語、歴史を教えており、ビロード革命の数年後、校長になっていた。私は科学的根拠に集中するよう教育され、科学に基づかないものは出鱈目か、陰謀論だとして無視するよう教えられてきた。この手法にも意味があることは認めざるを得ないが、この本で見た通り、我々が信念を持っている情報が、必ずしも信用できるものではないことは確かだ。
 ドラッグの分野と私の人生が関わり始めたのは1994年の事で、この時私はオロモウツのパラツキー大学と、アイオワ州シダーラピッズのマウントマーシー大学との一年間の交換留学を終えて帰国したところだった。私は当時新設されたチェコ政府の麻薬局のために翻訳を始め、麻薬依存における根拠に基づいた研究分野のために、チェコ語の専門用語を生成するのを手伝っていた。現実での私のゴールが大麻の再合法化である時に、政府の為に翻訳や解説を行うのは、可笑しなことだと思ったのは認めざるを得ない。彼らが麻薬の乱用や依存と闘うのに使っている戦法を、私は信じていなかった。代わりに、私は自分がしている仕事を、権力の座にある人々に近付いて、大麻が本当はどんなものか説明する手段だと考えていた。
 2001年、私はリン・ジマーとジョン・P・モーガン共著『Marijuana Myths, Marijuana Facts(マリファナにまつわる神話と事実・科学的証拠の検証)』を翻訳した。これは大麻に関する科学的研究の再調査で、この植物に関わる最も有名な神話、迷信の正体を暴くものである。この本で最も私の興味を引いたのは、この植物を禁止しておくために何がなされてきたかと、そのために、どのように研究が進められたかということだ。例えば、彼らがどのように大麻喫煙による害に関するデータを得たかご存じだろうか。彼らはマスクを猿の顔面に装着し、供給される大量の大麻の煙だけを強制的に吸い込ませた。猿はこの試練を数回耐えた後、脳を検査された。当然のことながら、彼らの脳にはダメージがあった。ダメージが存在したことに疑いはないが、現実には何が原因だったのだろうか。研究結果ではマリファナの煙が原因となったとされているが、常識的に考えれば、脳への酸素不足が原因であり、彼らの発見は実質意味をなさない物だったのだ。この本は十分すぎる程の証拠を提示しているし、我々の政府は反応して然るべきだと、私は考えている。だが、そうする代わりに、彼らの誰も読む時間さえ作っていないようだ。
 2005年、ミラン・ラムジーは仕事を必要としていた。私は彼に金を貸すのにうんざりしていたので、彼に箱一杯の大麻の葉っぱをやり「これで軟膏を作って売れよ。これがお前の仕事になる。」と言った。私の投資と、ノウハウと援助で、彼はヘンプ化粧品の会社を始め、三年間持たせている。私はこれらの化粧品が持つ高い効能と、それを使った人々の病気が治って行くのを目にしてきた。そして私はその成果に何か責任を感じたのだった。私は、彼らが麻薬防止と呼ぶもののために、貧弱な文章を翻訳するのに飽き飽きしていたので、自分の翻訳家としてのキャリアを終わらせることを決定した。
 2008年5月、バイヤル&ラムジー・ヘンプコスメティクスの商品が市場に出た。私は自分達のウェブサイトの内容となる文章を探していて、ルミール・ハヌスの素晴らしいインタビューに行き当った。彼は卓越した人物であり、チェコの生化学者で、大麻研究の専門家としてしばしば言及されている。最近彼は、イスラエルのエルサレムにあるヘブライ大学でラファエル・メコーラムと共に研究を行っている。私はサイトにインタビューのリンクを貼ってもいいか彼に尋ね、彼は了承した。我々は何度かEメールを遣り取りし、私は自分達が目撃した、我々の商品の起こした奇跡を、彼に説明した。彼はその報告を喜んでいた。彼はまだチェコにいた時分、自分自身で大麻軟膏と大麻チンキを作ったことがあったそうで、それがどんな効果を持つか容易に想像できたのだ。
 私は興奮と共に、彼にメールを書き送った「少し待っていれば、大麻が癌やエイズをはじめとする、今まで不治と考えられてきた全ての病気を治すことが発見されますよ。」彼の返事は、既に大麻と癌に関する研究はされていて、どうやら前途有望のようだ、というものだった。私は直ちにトマス・ザブランスキーに連絡を取り、彼にそのことを知っているか尋ねた。彼は博士号のために勉強していて、プラハにあるカレル大学の依存症学センターの研究主任だった。彼の素養があれば、この件について理解する時間の節約になる、と私は考えたのだ。彼の答えは非常に曖昧なものだったが、幾つかの研究で良い結果がでていることは認めた。私は人間に対する研究は無く、あまり期待すべきでないとも伝えられた。トマスに、大麻は完全に合法化されることはないだろうと言われ、出鼻を挫かれた私は、しばらくの間ガックリ来ていた。そしてその時は、確かに彼は正しいと思ったのだった。
 それでも私は彼の答えを挑戦と受け取り、これについて更に知ろうと頑張った。私はグーグルの検索結果を1ページ50件に設定し、8ページ目にして、初めてリックについての記述を発見した。私は最初に『Run from the Cure』を見た時、古代モラビアの伝統舞踊を踊り出さずにいられなかった。まるで一日練習しただけで、オリンピックで金メダルを獲ったかのように感じた。私の見解では、最早、政府関係者と専門家達は、これを注視せずにはおれず、この治療薬を非合法にしてはおけないはずだった。
 私の母は1998年、肺癌の治療の為に使われた化学療法の影響で亡くなっていた。ジャック・ヘラー著『裸の王様』の情報から、私は大麻草が母の病気にプラスの効果を持っていることを知っていたが、適切な使用法を知らず、該当する論文も見つけられなかった。野蛮な治療の代わりに、大麻を食べるよう母を説得しようとしたが、彼女は医療システムを信用することに決定した。
 化学療法は、肺小細胞癌には効果が無いし、それは医者も認めているところだ。2~5%の五年生存率しかないこの致死性の毒物投与を、彼らは〝治療〟と呼んでいるのだ。私は自分の目で、この毒物治療が何をし、それを受ける人々にどのような危害を加えるかを見た。彼らが「最新で有望な」治療だという化学療法で、母の体重は元の体重から27キロまで半減した。どの角度から見ようと、化学療法の薬剤は毒物であり、命ある生物に毒を盛って、良い結果を期待などできないのだ。
 母が医療システムから匙を投げられ、死ぬために家に送り返された時、最初にモルヒネを母に投与したのは私だった。この薬物が患者に与えられる時、それが何を意味するのか母は知っていた。これは私の人生で最も奇妙な経験の一つだ。我々はただ見つめ合って、お互い肩をすくめ、しばらく黙っていた。彼女の死は家族全体にとって大きなトラウマとなった。全てをひっくり返し、それから何年もの間、生きる意味が消失した。医学の専門家達は2クール目を始めてすぐ、もう助かる見込みがないと知っていながら、母に4クールの化学療法を行った。彼らが続けたのは、この〝新しい化学療法〟のデータを必要としていたからだったのだろう。母が死んでから、私は出来るだけ癌の話題を避けるようにした。私は誰かがその話を始めたら、直ちにその場を離れた。傷口はまだパックリと開いていて、ヘンプオイル無しでそれは治らなかった。
 10年後、私が何年もの間既に知っていたことを、大声で捲し立てるカナダ野郎が現れた。明らかに何か大事が始まっていたが、私はそれがどれほど大きくなるか、考えてもいなかった。私はミランにそれを話し、翌日、我々の知る全てのチェコの大麻活動家と、同じく政府関係の人間達に報告した。私の知る限り、ミランはチェコ共和国で最初にリック・シンプソン・オイルを作った人間だ。彼はリックの指示に従わず、換気を行わなかったので、ちょっとした災難に会った。ナフサを煮切っている間、それは往々にして結構時間が掛かるのだが、暇を持て余した彼は、本当に蒸気が燃えるかライターで試したのだ。すると突然、炊飯器から2メートルの火柱が立ち上がった。彼は潜水でするように、息を深く吸い込んで、火を吹き消そうとした。火が消える代わりに、燃えている溶媒が彼の顔に噴きかかった。幸運にも、彼は我々の麻実油マッサージオイルを持っていて、それをすぐ顔に塗ったおかげで、翌朝見たところ火傷にはなっていなかった。眉毛が少し焦げただけで、あとは何とも無かった。これこそチェコ語版の『Run from the Cure』に、オイルを作る際はライターを使うなと、警告の字幕が入った理由である。
 これについて出来るだけ学ぼうと、私はリックに書面で広範囲に亘るインタビューを行い、チェコツアーに招待した。私は彼をカナダから連れ出して、ここヨーロッパで彼に必要な休息と、環境の変化を提供しようと思ったのだ。私が察するに、彼は、カナダで大変な思いをして来たのだから、それが不可欠だった。我々は、リックとジャック・ヘラー、ルミール・ハヌスが提供する情報があれば、チェコ共和国で大麻の医薬的使用の扉を、すぐにでも開けるのではないかと考えた。我々は当時、権力の座にある人間にとって、病人よりも給料と我欲のほうが重要だということを、全然知らなかったのだ。当初私は、この後、リックと私が二年以上もかけて、この薬の使用を一般に認知させようと、一緒に活動することになろうとは、夢にも思っていなかった。
 私が彼と行った道程と、それが私の世界に対する認識の仕方をどのように変えたか、短く纏めるのは非常に難しい。前述のごとく、私の両親は教師であり、彼が話す陰謀論めいた事柄をどう私が感じたか、容易にご想像頂けるだろう。私は今までの学習からイギリスとアメリカの歴史について多少は知っていたが、復習して再考しなければならなかったのは認めざるを得ない。そして、自分がそうしたことを僥倖と思っている。目を開いて生きる方が、言われたことに盲目的に従って生きるより、断然ましなのだ。リックが言う事には本当に多くの真実がある。もし自分で事実を精査すれば、この薬の世界について、そして、なぜそれが禁じられてきたか、彼が言っていることに反駁のしようは無いはずだ。
 両替商は何千年もの間、世事に長けてきた。現在の彼らが、過去に儲けた利益と同等かそれ以上を望まない、と考える人間がいるだろうか。私は5年間、911について調べたが、最初にチェコのテレビでツインタワーが制御爆破されるのを見て感じたことが、確信に変わっただけだった。ヨーロッパのテレビ局は、飛行機からの構造的損傷を受けなかった190mの第7ビルが、6・5秒で倒壊する様子を映しさえしなかった。私は1993年末にニューヨークを訪れた時、実際にツインタワーに上った。あの巨大な鉄筋と何百トンものコンクリートの塊が、飛行機の衝突でそこまで影響を受け、飛行機の燃料でケロシン火災を起こすなどとは、到底考えられない。
 リックが到着し、政治や巨大金融資本と薬について気勢を上げた時、私は彼がちょっとイカれた人なのだと思ったことを、認めなければならない。続けて、彼がワクチンの使用による人口削減の自説をぶった時には、もし、彼がこれをチェコの医者達に言ったら、ドアに案内されそこで終了だと考えた。医師達はヘンプオイルが癌を治癒する、ということは呑み込めるだろうが、もし彼が、それを万能薬と呼んだとしたら(実際にはそう見えるが)彼らは、我々を精神科に直行させようとしただろう。
 当時の私は50キロの体重過多だった。煙草を煙突のように吸いまくり、スモモのブランデーであるスリボヴィッツとビール、脂の乗った豚肉を好み、家は癌と発作の家系だった。全体的に見て、私の健康状態は、良好とは言い難かった。さらに約8年間、手根管症候群を患っていて、いつも痛みがあり、過去に楽しんだことがあまりできなくなっていた。実際、この病気は多かれ少なかれ私を不具にしていた。ギターを弾けないことや本を持っていられないこともよくあり、物を持ち上げたり運んだりなど論外だった。
 このオイルで体重が減少するというのを読んだ時は、正直信じられなかった。私は自分の完全防護の内臓脂肪への投資は、ダイエットと運動以外で打破されるものではないと考えていた。私はリックに言った「どうだ。俺は体重過多の最高の例だ。頭のおかしいカナダ人め、あんたのインチキを暴いてやる。俺はオイルを摂って、体重も維持してやる。見てろよ。」彼は答えて言った「黙ってオイルを飲めばいいんだ。それでお前さんのヘナチェコな手根管と、他の健康問題は解消するだろうよ。」何年もの間、手根管の炎症による手首の痛みを緩和するため、私は考えつくありとあらゆる方法を試してきた。だから、私は彼の助言を全く信用していなかったと言ってもいい。
 もっと正確に言うと、私は彼を信じていなかったのではない。彼のいう事が私の理解の範疇を超えていたのだ。医師達は出来る事はほとんど無いと言っていたのに、リックはすぐに良くなるというのだ。だってそうだろう。彼が言った様に全てに効くなんて、実際有り得無い。私は彼が多少誇張しているのだろうと決めてかかっていた。
 だが、どんなに彼を否定しようにも、手根管の問題は無くなってしまい、体重も減ってしまった。一滴の汗もかかずに。食事を意図的に変化せることも無く、体重は120キロから75キロまで、一年かそこらの自然なペースで落ちて行ったのだ。オイルをとってしばらくすると、それが私に何を食べ、何をするか指示しているかのようだった。この物質が、スパムやジャンクフードから私を遠ざけ、摂取カロリーを減らさせたのだ。今ではそんな物を食べる位なら、大抵の場合、空腹でいるほうを選ぶほどだ。それでも食べようとすると、途中で止めてしまう、最早その味が美味くないのだ。どうやらこれらの食べ物には、不自然なところがあると思い始め、もうこれ以上体の中に入れたくなくなったのだった。
 我々の最初の癌患者は、オイルまたはそれを作る原料が、どこで手に入るかの手掛かりと助言を得るため、プラハのグロウショップ(大麻用栽培器具店)と売人の所へ出向くことに3週間を費やした。路上の売人達は、60代の前立腺癌の患者が、500gもの大麻を探していることにショックを受け、彼を断り続けた。でも彼は運が良かった。チェコで最も老舗のグロウショップの若い店員が、私に電話を掛け、彼を助けられないか尋ねてきたのだ。その患者は自分で作れそうにないと思っているようだから、我々がオイルを提供できないかと、その店員は訊いてきた。我々にどうしろと?だが我々はそれを製造し、提供した。そして、被害妄想と眠れない夜が始まった。本当に効くだろうか?彼は生存するだろうか?もしこれが原因で彼が死んだら?警察が彼に目を付けたら?彼の友人の誰かが、我々をタレこみはしないか?彼は誰に話すだろう?電話の盗聴は?何年刑務所に行くことになるだろう?なぜ原材料はこんなに高いんだ?なぜこれを合法的にできないのだろう?
 その患者は3ヵ月後にメールをくれて、癌が治ったことを教えてくれた。彼はこのことを報道関係者に話すつもりだとも言っていた。チェコで最大の新聞社が彼にインタビューしたが、出版はされなかった。医師達は彼の医療記録を見て、逸話的であり、何も証明していないと論じた。患者の癌は治癒していたが、医師達はそれをもたらしたのがオイルであると認めようとしなかった。
 私はオイルを知る前に、大麻食品についての経験があった。何年も前、私はある結婚式のパーティーのために二百個のスペースケーキ(大麻入りケーキ)を作った。我々は参加者に、ケーキは一つか二つだけに留め、それ以上は食べない様注意した。かなり強めに作ってあったからだ。アルツベタという女の子が遅れて現れ、お腹を空かせていた。それに何が入っているか誰も彼女に知らせなかったので、私が気付いて止める前に、彼女は16個ものケーキを食べてしまっていた。制御不能で留まるところを知らない、彼女のサティバトリップは、私にとって痛い思い出だ。大麻を食べることについて、あまり知らなかった私は、彼女が死ななかったことに感謝した。これほど沢山の大麻を食べたのだから、彼女の身体に害が及ぶかもしれないと思ったが、幸運なことに、スペースケーキによる病的な影響は無いようだった。かなり長い間、彼女はハイなままだったが。
 私は段々と大麻が、娯楽目的で使用される一般的なドラッグや化学物質とは、根本から異なる物なのだと気が付き始めた。それは使用者に、他の薬物使用に伴うような危険や依存症をもたらさず、寿命を縮めるようなこともない。それでも私は、このオイルを1グラム摂った人間が、全く悪効果を得ないということは想像し難かった。だが程無く、リックの指示手順に従いさえすれば、大抵の人は、それを大した問題も無く出来るようになる、ということが明らかになってきた。
 我々のオイルでの最初の実験はワイルド過ぎた。冒険に備え、我々はそれをオロモウツのバー・メトロに持って行き、皆に少しずつ試してもらった。デカい人には少し多めに。その夜、酒はあまり売れなかったようだ。彼らは落ちた蠅のようにひっくり返っていた。酔っている人にオイルを与えるのは妙案とは言えない。その人を眠らせるのが目的の場合を除いて。我々の人体実験と、彼らに与えた量を聞いた時、リックは信じられないと言って耳を覆った。彼は我々を一連の酷い名前で呼び、チェコ人とカナダ人の国民性、その他の違いを指摘し、彼の指示手順をしっかり読んでいない、という我々の失敗を、舌鋒鋭く明らかにした。而してその手順とは: