不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第15章

第十五章   チェコ共和国遊説

 2009年10月7日、息子がハリファックスの市街地からほんの数キロのところにある、スタンフィールド国際空港まで送ってくれた。案ずるより産むが易し。私は遂にチェコ共和国に向けて旅立った。何度か大小の飛行機で飛んだことがあるし、航空力学についても人並みに知っているつもりだ。それでも、私はこれらの大型ジェットに一定の不信感を否めない。どうしても飛行機の整備の程度が気になるのだ。この産業には多くの競争があり、そういった状況下では、経費削減として〝角を落とす〟会社があっても不思議ではない。それから、空港でスキャンなどに費やす時間も不便極まりない。それが我々の安全のためだと言われても、そこに雇用されている人間達が、我々皆を、あたかも密輸人か指名手配犯のように睨め付けるのには閉口させられる。我々は通過するごとに金属探知機を当てられ、空港によっては、放射線走査さえ受けさせられるのだ。
 私がジョージ・ブッシュと彼の出鱈目なテロとの戦争の支持者でないことは、言わなくても分かるだろう。もし、国連とそのメンバーのいくつかの国々が、他の国々を圧迫する政策を止めれば、私達の旅行はずっと安全なものになり、我々皆を対象とした、健康被害の原因となり得るスキャンの必要性も無くなるだろう。空港を通る度に、こう思わずにはいられない「Fly the Friendly Skies(ユナイテッド航空のキャッチコピー、友好的な空を飛ぼう)」はどこへ行ったのだ。そしてなぜ世界はこうも危険な場所になってしまったのだ。このフライトで唯一良かったと言えることは、どうやったらオイルを持って行けるか、新しい方法を閃いたことだ。今回、オイルを持って来られないことは明白だった。だから私は怪しまれないよう、空港に入る前に上の入歯を外し、結構な量のオイルを塗った。入歯にポリ○リップを付けるのと同じ要領だ。3/4グラムかそれ以上を塗ったが、効果は長く持続し、フライトを楽にしてくれた。
 その夜、大西洋を飛び越えるために私が乗った飛行機は、乱気流が多かったせいで、かなり荒々しい飛び方をした。多くの乗客は塞ぎ込み、怖がっていた。一方オイルの効果のおかげで、私はリラックスし、落ち着いていられた。私は飛んでいることに恐怖を感じなかった。多分これもオイルのお蔭なのだろう。着陸まではまだ1時間あったので、私は無聊を慰めるため、何か見えないかと思って、窓の外を見た。そこには何キロも下に、街の明かりが黄金の蜘蛛の糸となって、見渡す限り広がっていた。それは見事な光景だった。私は過去にこのような光景を見たことが無い。その時の我々は、イギリス諸島上空を飛んでいたのだと思う。程無く、我々はドイツのフランクフルトに着陸し、そこでプラハ行の便に乗り換えたのだった。
 プラハに着き空港を出ると、イェンツェフ・バイヤルとミラン・ラムジーが出迎えてくれた。二人はバイヤル&ラムジーのオーナーである。イェンツェフは翻訳家だったので、英語が流暢だった。我々はすぐに打ち解けた。バイヤル&ラムジーはヘンプコスメ(大麻製化粧品)の会社だったので、彼らがなぜこの植物の治癒力に興味を持ったのか尋ねてみた。彼らは産業用大麻の抽出物で化粧品を製造し、自分達が販売している化粧品の驚くべき治癒効果を目撃したのだと、イェンツェフは説明してくれた。
 彼らは私の事を知る前に、産業用大麻ですら治療効果を持っていると、既に知っていたのだ。それで彼らは、私のしている事をインターネットで発見した時、全てに合点がいったのだそうだ。私は治療薬を製造するために、世界で最も効きの強い数種類の大麻品種を使ってきた。効力の強い大麻品種の薬用効果について、私が言っていることは多分真実だと、単純な常識を用いれば、彼らにはすぐ分かったのだ。イェンツェフとミランは、私がそうだったように、この植物が持つ治癒能力の高さと、人類にもたらす恩恵に大興奮していたのだ。
 プラハ市街までの道程で、最初に私達が後ろに付いた車の一台は、フェラーリだった。カナダではこのような高級外車は非常に稀だったから、写真でしかこんな車にはお目にかかれないが、ここでは本物の後ろをドライブしているのだ。チェコ共和国は他にどんなサプライズを私に用意しているのだろう、と思わずにはいられなかった。それから我々の車はプラハ市内に入って行った。そこで私は息を飲んだ。プラハを言葉で表現する役割を与えられた者がいたとしたら、この町を正当に評価するのは、まず不可能だろう。私には、この町に車で入って行くことが、まるで馬車に乗って、おとぎの国に入って行くようだった。大小の塔や教会の尖塔、お城や橋、それに宮殿、プラハにはそれらが全て揃っていて、他にも沢山あった。
 この街は文字通り、歴史の中から飛び出してきたかのようだった。私はアーサー王のキャメロットに辿り着いたのか、と思った程だ。その美しさと歴史的風景を、生涯忘れることは無いだろう。プラハの建築はこの時間を超越した街の、最も価値ある財産である。時々、私は2009年ではなく1500年にいるのではないかと思う程だった。どこに行っても人々は幸せそうで、私が会う人々は押し並べて、とてもフレンドリーだった。この国は思い描いていたものとは全く異なる様相を、私の前に展開させていた。
 チェコ共和国での最初の夜、我々はジェフニの村にある、古い教会の隣に立つ牧師館に泊まった。牧師館の持ち主のJan Pospisilヤン・ポスピシルという名の若い芸術家と、彼の恋人のVlasta Samohrdovaブラスタ・サモルドバは我々を歓待してくれ、寝る所を提供してくれた。翌日の朝食後、私はこの古い村の景色を観て回った。その辺をぶらついていると、なぜか急に馴染み深い感覚に襲われた。まるで以前来たことがあるかのような。過去にこの村の写真でも見たのだろうか。またはそれに類するような何かを。その感覚はただやり過ごしてしまうには、強烈過ぎるものだった。それは喜ばしい気分ではあったが、その原因が思い当たらなかった為、少しばかり困惑させられた。
 私が家に戻ると、ヤンは彼の作品をいくつか見せてくれた。彼の才能は大したものだ。ヤンは色々なテーマに関する、様々な素材を使った芸術作品だけでなく、映画セットのための巨大な生物も作成していた。我々が出発する時ヤンは私に、また来ても大歓迎だし、どれだけ居てくれても構わないと言ってくれた。ヤンとブラスタに会えたことは本当に嬉しいことだった。全てがうまく行けば、彼の才能と技術は、どこまでも彼を人生の高みに連れて行くだろう。
 程なく、我々はプラハに戻ってきた。私はこの街の真の美しさと威厳に心を打たれていた。それから私は、世界最高峰の大麻研究家の一人である、ルミール・ハヌスに紹介された。私は長年、人の目を見て、その人の本質を理解する糸口としており、これに熟練して来ていた。諺にもあるように、目は口程に物を言うのである。私の経験では、大概この先人の知恵は正しかった。ルミール・ハヌスの目には、善良な精神が見て取れ、私達はすぐに打ち解け友達になった。
 その日の午後、レストランで食事をしている時に、私はメリッサ・ベイリンとチャック・ジェイコブスに初めて会った。チャックと打ち解けるのはとても簡単だったが、メリッサは全く違った。彼女は撮影可能なものを全てフィルムに収めようと来ていたのだろうが、彼女の振る舞いにはうんざりさせられた。その後、私は短いスピーチをする予定になっていたが、急遽フルで講演をするべきだ、ということに決定した。私の頭では、二日後の月曜日まで講演の予定は無かったから、その間に準備を整えようと思っていた。カナダにいる間に纏めたセミナー内容は、かなり政治色が強いものだったので、週末を使って表現を弱めよう、という腹積もりだったのだ。しかし、もう内容を変更している時間は無かった。
 ルミールが最初に話し、素晴らしい講演をした。彼は熟練の演説家だった。それから私の番が来たのだが、通訳をしてくれた女性には本当に申し訳なく思った。講演はかなり政治色の濃いものだったし、数ページ分前後してしまった。しかし、なんとか最後までやり通した。ルミールはセミナーの間、ずっと静かに座って聞いており、彼が私の話に賛同しているかどうか分らなかった。私は自分がとった政治的強硬路線が、彼に嫌な思いをさせないことを祈るばかりだった。その日講演を行う前、自分が準備してきたものには従わず、ただ思いつくままに話すのがベストだと思っていたが、はっきりさせておかなければならない点が、いくつもあったので、結局自分が書いてきた原稿に沿って話を進めた。私に出来る事は自分の文章を読むことだけで、後は聴衆の反応を待つしかなかった。講演が終わった時、誰も私の話で憤慨している様子は無かった。この件に対するカナダ政府の言動に、なぜこうも私が憤っているのか、彼らは理解してくれたのだと思う。
 ルミールとセミナーをするのは本当に光栄なことだったし、彼とは馬が合った。彼の存在により、この講演における私の話は、説得力を増すことができた。チャックはジャック・ヘラーの代理として責務を果たし、メリッサは全てをフィルムに収めた。この後、イェンツェフとツアーについて話をしていた時だ。彼はどこか上の空だったので、私は資金面で問題があるのではないかと思い、訊いてみた。やはり将にそれこそが問題だった。ジャックが病気に倒れた時点で、多くのスポンサーがツアーから降りてしまっていたのだ。どうやらツアーを完遂することが期待できる程の余裕は、どこにもなさそうだった。イェンツェフは文字通りポケットマネーで出費を捻出していたのだ。私は暖かい食事と寝床があれば、後は他に何も要らないから安心しろ、と彼に伝えた。ツアーをやり遂げるために、必要な資金の有無は心配でなかった。と言えば嘘になるが、兎に角与えられた状況の中で、やるだけやってみるしかなかったのだ。
 初っ端から私とメリッサは全く反りが合わなかった。彼女はまるで自分が指揮者であるかのように振る舞い、他の人や私に命令する権利があると思っているようだった。私のような人間に、さしたる理由も無いのに何かをさせようとすれば、すぐ議論になる。彼女も例外ではなかった。私は彼女に「身の程を弁えろ、さもなければ次の便の飛行機でアメリカに帰れ。」と言った。この時彼女は涙を流しながら言った「ジャック・ヘラーがここにいたら、私にそんな口は利けなかったはずよ。」私は「その通りだ。もしジャックがここにいたら、私ではなく、ジャックが言ったはずさ。」と答えた。
 私は真剣だったし、もし彼女がこれ以上私をキレさせていたら、彼女は本当に家に送り返されていただろう。これで彼女は自分の置かれた状況を理解したに違いない、彼女は少し落ち着き、皆に対してより適切な言動をとるようになった。私が思うに、初めの頃の我々は、皆大きなプレッシャーの中にあり、期待していた資金が無くなったことで、事態が悪化したのだ。私はイェンツェフとミランに最大の称賛を与えなければならない。彼らが全てを纏め、どうにかしてツアーを続けさせたのだ。
 数日後、ルミールと私はオロモウツで二つの講演を行った。午前中、オロモウツのパラツキー大学でセミナーを行い、その後Divadlo hudby音楽劇場でもう一つ行った。勿論この時までに私は、講演の政治的側面を弱め、この治療薬が人類を助けるために、何ができるかに焦点を置くようにしていた。大学での講話を終えた時、若い医学生が私の所に来て言った。「あなたは医者達が殺人を犯していると言うのですか?」「もし私が誰かに毒を与え、その効果で彼らが死んだら、あなたは私を何と呼ぶね?」と、逆に質問することで、私は彼女の問いに答えた。「毒物を提供する者が白衣を着ていたとしても、そこに違いが生じるだろうか?」この発言は彼女の心を駆り立てたようで、かなり狼狽えているのが見て取れた。彼女は続けた「この大学の医学部は10月26日に、もう一度あなたがいらっしゃることを望んでいます。その時、彼らが真実を示し、あなたを正すでしょう。」私は「お嬢さん、チェコ共和国の全ての医者を26日に呼んでもらっても構わんよ。そこで誰が真実を示し、誰が正されるのか見てみようじゃないか。」
 イェンツェフは私達の会話を傍で聞いており、来るべき対決に興奮を隠せない様子だった。「もし医学部があなたの相手になるなら、きっとニュースメディアが絡んでくるよ。」私は笑って応えた「誰も相手になんかなるもんか。私は真実を語っている唯一の人間だ。彼らが何をもって来ても勝負にならないよ。」驚く程の事ではないが、大学は3日後に電話を寄越して「学生達が興味を示さないので」対決をキャンセルしてきた。他の人がこれをどう感じるか知らないが、地上最高の自然薬と、それが未来の患者を助けるために何ができるのか、若い医学生達が知りたがらないとは、どういうことか私は理解に苦しむ。もし本当に医学生達が興味を持っていないのであれば、彼らが医者になった時、治療を受ける人間に同情を禁じ得ない。ここで行われていることは、私がカナダで散々経験してきたのと同じ、紋切型の「真実隠し」に他ならないのだ。
 ルミールと私は様々な会場で一緒に講演した。このテーマに関して、私達が話していることは協調しており、この偉大な大麻研究者が自分の側にいることは、この上ない喜びだった。チャックはこれらのセミナーでは砕けた話を披露し、観客をよく笑わせていた。この組み合わせはうまく機能し、どのイベントでも受けは上々だった。
 これで我々のツアーは公式の部分を終了したので、後は自由行動となった。イェンツェフはいくつかのクラブ等で、私とチャックのスピーチを計画していた。ここからは原稿無しだ。以前から沢山の人に、原稿無しでやった方が、聴衆の心に響く、と言われてきた。ほとんどの場合、音響システムを通して、自分を解き放つだけで、そこにいる人達に要点を理解させられるようだった。我々はこれらの会場に着くと、まずイェンツェフが作ったチェコ語字幕の『Run from the Cure』を上映し、それから私がこの薬の効能と、なぜそれが禁止されてきたのかを話す。ここで活発な質疑応答の場を設け、最後にチャックが話し、それでお開きとなる。
 セミナーが終わった後は、音楽が鳴り始め、我々は寛ぎ、場の雰囲気を楽しむのだった。チェコのクラブは控えめに言ってもイケていた。音楽が鳴ると、私の老骨もじっとしていられなくなった。私の年齢でこんなに自由に動けるのを見て、皆びっくりしたと思う。私の関節に関節炎が起きていないことは、誰が見ても明らかだった。今までいつも踊ることが大好きだったし、それは兎も角、この薬が全体的な健康に何をしてくれるか、人々に見てもらうのは重要な事だと感じていた。私は自分をオイルの絶大な効果の、歩く広告塔と考えていたと言ってもいいだろう。セミナーが終わると、沢山の人々とこの薬の素晴らしい性質について話し合った。ここでの経験は全てが楽しかった。
 何年も前に、私は酒に対する嗜好を失くしており、普段はビールすら飲まなかった。チェコ共和国で産する、世界的に有名なピルスナー・ウルケルを味見してみて、私のアルコール飲料に対する味覚に、幾分変化が生じたと言わざるを得ない。その後はセミナーが終わると、夕方に2、3本のピルスナーをよく開けたものだった。私はこの時、沢山のバーやクラブで話したが、中でも私のお気に入りは、オモロウツにある小さな「メトロ」というクラブだった。メトロは他のクラブと比べると、とても小さかったが、そこで過ごした時間は本当に楽しかった。
 ある日、我々はコイェティーンの素敵なホールでセミナーを行い、地元の夫婦の家に宿泊した。彼らはとても素晴らしい人達で、家は保存状態のいいアンティークで設えられた、可愛らしいものだった。次の朝、私はその家の裏庭にある、夫婦所有のよく手入れされたハーブ園にいた。そこには思い付く限りのハーブが、全て植えられていた。それから、庭の奥にある小さな温室が私の注意を引いた。そこは様々な種類のサボテンで一杯だった。これには幾分おどろいた。チェコ共和国でサボテンを見るとは思わなかった。しかし、この小さな温室はそれらで溢れているのだ。
 その後、私は近所を一緒にいたKalovskaカロフスカ夫人と散歩した。彼女は、この地域には第二次世界大戦以前、多くのユダヤ人が住んでいたのだ、と話してくれた。私は戦時中ユダヤ人に対して何が行われたか知っている。そしてその残虐行為が行われた同じ道の上を、私達は散策していたのだ。70年前、ドイツ軍の兵士達は、ヒトラーの狂った野望「ユダヤ人問題最終解決」のためにユダヤ人家族をここで狩り集めた。私が今歩いている将にこの道路でそれが起こったのを知り、どこか気味悪いような気持ちではあった。しかし不幸なことに、人間の同胞に対する非人道的な行いは「最終解決」だけでは終わらなかったのだ。
 こういう事は出来るだけ言いたくないが、私に言わせれば、現在の病院はヒトラーの絶滅収容所に取って代わっただけなのだ。私にとって、最終解決は未だ続行中であり、それは断然邪悪で隠匿された様式になっていて、世界中のほとんどの政府によって後援を受けている。他の国が、戦時中ドイツのしたことを批判するのは、正にお笑い草だ。彼らは自分達が何億人もの自国民を、製薬会社が供給する化学物質や毒物を用いて、病院で殺しているのを棚に上げ、さらに国民が自分達を治療する為に、自然薬を使用することを禁止している。「薬」という言葉は「虐殺」という言葉よりも響きは良いかもしれないが、もたらす結果が同じだとしたら、一体何の違いがあると言うのだ。
 私は滞在中、南ボヘミアに位置するフラスティツェのグリーン・ポンプでも講演を行った。そこには大麻から作られた様々な製品が展示してあった。大麻コンクリート、断熱材、ペンキ、ニス、パスタ、チョコレート菓子、それに大麻ビールまであった。ヘンプから作れない物は余り無いのではないか、という程だった。その夜は非常に良い勉強になった。翌日、ヨーロッパに3台しかないと言われる大麻収穫機械の中の一台が、どのように稼働するかを我々に見せるため、近くの産業用大麻の畑に運ばれて来た。確かにそれはクールな怪物ではあったが、私が思い描いているような事業に限って言えば、このような収穫機には、あまり価値を見出せなかった。この機械は確かに、その建造目的を良く果たしてはいたが、薬を作るために必要なバッツや樹脂を、大量に畑に残してしまうのだ。その日の午前中、大麻種子を冷温圧搾して麻実油を取り出す、大きなプレス機も見学した。麻実油が一方の口から出て、種の殻がプレスされてできた太い麺状の物が、もう一方から出てくる。それらの麺を一本取って、麻実油に付けて食べると、ナッツの香りがして美味い。この植物には心底驚かされる。これらの大麻製品が製造される工程を見るのは本当に楽しかった。
 我々はかなりの時間、車でチェコ共和国中を走り回ったが、私にとってその時間は、この国の美しさを観覧するよい機会となった。どこに行っても、良く整えられた農地と、息を呑む美しい山並があり、私の中の親近感は強くなる一方だった。チェコ共和国における大麻使用は、少なくとも二万六千年前に遡ると聞かされた。古代遺跡から土器が発見され、その製造時期が特定された際、それらの土器の表面に模様を付けるため、大麻繊維が使われた可能性が高いことが判明した。私が出会ったチェコの人々の大多数が、大麻を悪者にするプロパガンダに影響を受けていないようにみえるのは、こういう事情があるからかもしれない。カナダから来た私にとって、チェコ共和国とここに住む人々は一服の清涼剤となった。
 ある夜、催しに参加した後で、制服を着た警察官と一緒にジョイントを吸ったこともあった。最初はおかしな気分だったが、すぐに彼の存在にリラックスできた。彼はとても気の良い男で、すぐ打ち解けられた。私はずばりこの警官に、チェコの警察は市民が大麻を吸うことをどう思っているのか、また、現在ある法律は正しいと思うか、と訊いてみた。彼は微笑んで、チェコの警官の多くは自分達も大麻を吸っていて、同じことをしている人々に、横槍を入れるべきではないと感じている者が多い、と説明してくれた。カナダの警察と散々やりあってきた私にとって、彼の様な人間は新鮮だった。私はなぜ母国の警官達が同じように行動できないのか、不思議でならない。この国の警察はこの問題について、フランクな態度をとっている様だったし、ポットスモーカーを追い回す代わりに、深刻な犯罪を取り締まるのに、精力を傾けているようだった。カナダの警察が、すぐにでも同じようにしてくれないかと願うばかりだが「果報は寝て待て」か。
 この国に来る前、カナダと同様な半警察国家を訪れるのだろう、と考えていた。だが実際、ここは自分の周り全てに、自由を感じられる土地なのだ。この気風はチェコの人々が耐えてきた圧政に因るのかもしれない。その始まりはナチスであり、次が共産主義である。これらの支配体制の下で、人々は大きな苦しみを耐え忍んだ。しかし遂に1989年、共産主義の軛が外された。この変遷はビロード革命と呼ばれており、後に大統領となるバツラフ・ハベルが指導的役割を果たした。1人の死者も出さずに革命を成し遂げた事実は、国家とそのリーダーシップに関して、示唆するところが大いにある。文明的により洗練されている感じがするが、どうだろう?それから1993年、ビロード離婚が成立した。チェコ共和国とスロバキアは別々の道を行くことになり、別々の国家となった。これまでチェコの人々は歴史に翻弄されてきたが、今や真新しい国を手に入れたのだ。過去を通り抜け、彼らは今、より良いものを創りたいという、燃え上がるような願望を抱いている。私はそれが成功するだろうと、固く信じている。
 私達が外国を訪れる時、大抵の人は、そこに馴染むことを本当に期待してはいない。大概は帰った時に話の種になるような、何か物珍しい事物を見るためだけに、そこに行く。だが私の場合は違った。私の行った所は全て、温かさと親密さを与えてくれた。自分の理解できない言語を話す人々で溢れる部屋に居ても、完全な心安さを感じられるのだった。この国の全てが私に、長い旅から帰郷したような感覚を与えるのだ。恐らくチェコ共和国とそこに住む人々に、過度の愛着を形成しているのだ、と判断されるかもしれない。だが、それはこの国に相応しいものだと思う。
 ツアー中は活動が目白押しだった。私は感心せざるを得ない、善良な心を持った大勢の人達と出会った。世界的に有名なチェコの写真家Jindrich Streitイェンツェフ・ストレイトは、オイルを使用している患者のフォトジャーナルを始めると言ってくれた。これは人々の意識を高めるのにかなり有効だろう。それから私は、Leopold Svaty レオポルド・スバティやその恋人のSylvie Sedlackovaシルヴィエ・セドラコヴァ、Milan Jirasekミラン・ジラセク、Martin Kadlecマルティン・カドレック、などの活動家、他にZerockゼロックやMr.Smokalotミスター・スモカロット(沢山喫煙するの意)と称する人物に紹介された。大麻解放運動家達の中には、人々に間違ったメッセージを送りそうな通り名を使う者もいるが、しかし、ゼロックとスモカロット氏はPanacea Medicinal Seedsパナシアメディシナルシーズ(万能薬の種子)社が、何百もの良質な大麻種子を、私に提供する手配をしてくれた。自分で大麻を育てようと計画している患者達が、私の所に来た時に配ることができるように。これらの種は全て無償で提供された。ここでパナシアメディシナルシーズに謝辞を述べたい。あなた達の厚意によって提供された種は有効に利用されています。
 このような度量の活動家達と知り合い、話をするのはとても新鮮だった。私はDJ Nuffという活動家にも会ったが、彼は友達のOndrej Vetchyオンドジェイ・ヴィトヒーを講演の一つに連れてきた。オンドジェイはチェコ共和国で最も有名な映画俳優の一人なのだそうだ。だから、私が提供した情報は確実に重要な人々に行きわたっているはずだ。私はHugo Toxxxフゴ・トックスとも接触した。彼はチェコ共和国のラップスターの一人である。フゴは素晴らしい男で、この美しい国に住む市民が、病気で苦しむのを終わらせるために、この薬に何ができるのか、随分長い間、我々は話し合った。フゴのような立場にある人間は、大衆にその言葉を広めることができるし、実際彼はそれを実行したことを知っている。我々が最初に会って数か月後、フゴはオイルについての歌を発表し、若者達にオイルについてのメッセージを広める一助とした。彼の努力は称賛に値する。
 イェンツェフとミランがどのようにしてツアーを纏めることができたのか、私には想像もつかない。彼らはチェコ語を一つも解さないカナダ人を連れて来て、ツアーを大成功させたのだ。資金難から、皆少しは不自由な思いもしたが、我々の使命を考えれば、この程度の不便さは全く問題ではなかった。総括すると、最初の18日間で私は10回の講演を行い、同様に他の集まりや個人に対して何度も話をした。平均して二日毎に一度のセミナーをしたことになる。数字だけだと、大したことが無いように聞こえるだろうが、会場から会場への移動を考えてもらえれば、それがとてもタイトなスケジュールだったことが、分かってもらえるだろう。全てのセミナーを終了した時、私はその結果に大満足だった。我々は大勢の人々にメッセージを伝えることができたし、この情報は急速に拡散するだろう。
 ある日、イェンツェフが妊娠中にオイルを使用した地元の看護師のことを話してくれた。彼女はヘンプオイルを少量飲んで、苦しんでいた膀胱の問題に対処した。症状はあっという間に寛解した。また彼女は、オイルを麻実油と混ぜて外用し、妊娠線を予防することに成功した。歴史には出産時、母体に大麻が使用された証拠が数多く残されている。それで彼女は自分の時が来た際、体の中に十分なオイルを摂っておいた。これが彼女の初産だったから、かなりの苦痛を耐えなければならないと予想されていたが、彼女は病院に運ばれた際、注射を拒否し、多少の痛みは伴ったものの、30分後に完全に健康な赤ん坊を出産した。多くの女性にとって、出産は激痛を伴う経験である。母体にもこれから生まれようとする胎児にも、危険性の無い自然の薬物が使用可能であるのに、なぜそれを使わず、必要のない苦痛に耐えなければならないのだろう。私は妊婦にヘンプオイルが広く使用されるのを期待している。私はそれが母親にも子供にも非常に有益であると確信している。
 講演したイベントの一つで、誰かが私のことを人権活動家と呼んだ。私はこの発言に立ち止まって考えなければならなかった。この時点で私は自分の事を、大麻解放運動家だとさえ考えていなかったのだ。だが今、自分が実際は、本格的な人権運動家であるという現実と、向き合わなければならない。恐らく、もっと適切な表現をすれば、自然権活動家ということになるだろう。そのような権利は神の所与である。政府が与えていると考えられている権利は、本当のところ、市民の生得の権利であり、彼ら自身の規範に付随するものなのだ。我々が〝人権〟という言葉を使う時、口を出た言葉に本当の注意を払っていないことが多い。簡潔にする為に、私は人権という言葉を使い続ける。だが、今あなたはその違いに気付いているはずだ。私がしていることは、ただ大麻や大麻解放運動だけに関わることではない。それは自分達の心身を薬草医学で自由に治療する、人類全てに与えられるべき権利についてなのだ。この視点から自分の活動を再考すると、私は人権活動家だと言える。そして、私は今までジャックがしてきた仕事に別角度から光を当て始めたのだった。
 ジャック・ヘラーは大麻皇帝だっただけではない。彼は多分、最も偉大な人権と自然権の活動家の一人である。彼が著作やスピーチの中で送り続けてきたメッセージは、大麻解放運動の大義名分だけではなく、全人類の大義を説いていたのだ。結果としてジャックは40年間、世の木鐸となってきた。彼のような不屈の精神には、大きな感銘を受けざるを得ない。マルチン・ルーサー・キングのような人々は確かに偉大な人権活動家だろう、しかし、誰がジャック・ヘラーを同じカテゴリーに入れられないと断言できる?ジャックは我々の世界で何が間違っているのかを見抜き、我々自身と未来の世代にとって、どうしたらより良い世界にできるのかを、何十年もの間話し続けてきた。
 歴史を通じて、偉大な事績を残した者、皆を導きその例に従わせた者は、人々により「聖人」に列せられてきた。この世界をより良いものにしようとしたジャック・ヘラーの努力に鑑みれば、彼に同様の評価が与えられてもいいと思う。我々人類という種族とこの惑星に、これ程までに貢献し、この素晴らしい植物を育てること、その有益性に対する意識を高めることに尽力した人間を、私は他に知らない。彼が成した貢献の大きさを考えれば、ジャック・ヘラーは大麻の守護聖人の栄誉を与えられて然るべきである。
 ツアーは公式には終了したのだが、カナダに帰る前に3、4日、個人的にプラハを見物する時間があった。Hanka Skalovaハンカ・スカロヴァという可愛らしい女性が、ある日の午後、私を案内してくれたので、素晴らしい都市観光をすることができた。ハンカは一緒にいるのが楽しくなる女性だったが、それだけでなく、チェコ共和国とプラハに関して、文字通り知識の泉だった。その日我々は、プラハで最も古い地域を歩いていて、ハンカがそれぞれの名所旧跡の由来を説明してくれた。カレル橋を歩いて渡り、世界的に有名なプラハ城へと丘を進んで行った。坂の途中で我々は食事を取るため、ある店に入った。そこはとても歴史がありそうな酒場だった。ハンカによると、この店はプラハで最も古くから営業を続けている酒場らしく、私はどれくらい古いのか、ハンカに尋ねた。彼女は「1300年からよ」と答えた。私は不信を露わに訊き返した。「この酒場は700年間ずっと営業してるってのかい?」彼女は微笑んで答えた「プラハはとても古い町なのよ。」このようなプラハにおける全てのことが、魅惑的で思い出深いものだった。この見事な街に対する私の称賛を、自らの目で確認しに行くことをお勧めしたい。
 私の出発の2日前に、イェンツェフは私に一冊の本をくれた。アルバート・アインシュタインの『Ideas and Opinions(思想と意見)』だった。彼が私に、なぜそのような本をくれたのか想像もつかなかった。私の興味は大麻草の周りをぐるぐる回っていたが、それはこの天才の思想とは関係無いと思っていたからだ。イェンツェフは私を良く知るようになっており、様々なことに対する私の考え方に気付いていた。彼はこの本の内容を知っていたのだが、私はそれを読んだ時衝撃を受けた。彼は正しかったのだ。その時はアインシュタインと私に接点があるとは思ってもみなかった。私がその本を開いた時、そこには私と同じ世界の見方をする男がいたのだ。自分をアルバート・アインシュタインと同じカテゴリーに入れるなど滅相もないことだが、確かに、様々な事物に対する彼の印象は、私のそれととても似通っていた。この本を読むことは私にとって「目から鱗」の経験だったし、徹頭徹尾楽しいものだった。
 私はイェンツェフとミランの両方と親密になっていたし、チェコ共和国は日々、増々自分の故郷のように感じられた。だが出立の時は来た。私は本当に後ろ髪引かれる思いだったが、カナダにはやるべきことを残してきていたし、イェンツェフとミランはカナビスカップに参加すると言っていたから、11月にアムステルダムに行けば、少なくとも彼らと再会できる。カナダには治療薬を得るために、私の帰りを待っている沢山の患者達がいる。今直面している問題は、11月20日にアムステルダムへ出発するまでに、彼ら全員とやり取りできるかという事だった。その猶予は3週間しかないのだ。