不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第16章

第十六章   キャッチアップに励む

 カナダへの帰郷は大変だった。我々の飛行機はドイツの空港で、レーダー故障の為何時間も足止めを食った。チェコ共和国を発って22時間後、ようやくハリファックス空港に到着した時には、完全に疲れ切っていた。家に帰って数時間、泥のように眠った後、私の帰りを待っていた人々とやり取りを始めた。裏庭に生えていた作物達は収穫を終え、帰る少し前に乾燥されていた。だが、留守の間の天気は期待通りに行かなかったため、バッツは思い通りに太っていなかった。これには幾分ガッカリした。
 大麻栽培においては、開花期になりプラントが性別を表し始めたら、雄株を取り除いてしまう。私の使用目的では、雄株には何の価値も無い。もし、雄株が畑の中に残されていると、雌株が受粉してしまい、薬を作るための花穂は少なくなり、種ばかりが獲れることになる。雌株は受粉すると、持てるエネルギーを種の成熟に費やしてしまう。種を収穫することを目的とする場合は別だが、これが雄株を取り除く理由だ。雄株を取り除き、雌株が受粉しなければ、プラントはバッツの形成にその全精力を注ぐことができるのだ。
 この年、私が雄株を取り除いてしまうと、収穫できる雌株は150本程しか残らなかった。いつも通り原材料は少なかったが、それでも全く無いよりは断然ましだ。私は使える材料をもって、薬の製造に取り掛かった。それを必要としている人の為に、出来るだけ早く。去る2009年春、ノバスコシアのヤーマスに住むレリー・デオンという男にオイルを提供した。彼の息子の多発性硬化症を治療するためだ。23歳になる息子は漁師だったが、病気のせいで歩くことが困難になり、漁船で働くことができなくなってしまった。6週間のオイル治療の後、動作も歩行も、再び正常に行えるようになった彼は、仕事に復帰できた。息子の〝不治の病〟が治ってしまったのを見てレリーは瞠目し、我々は友達になった。
 レリーはフリーマンオンザランド運動にも関わっていたので、我々には共通項があった。春に初めて彼に会った時、彼は私に持っておくべき債権があると話していた。全く知らなかったのだが、500億ドルの支払い補償保証債(discharging and indemnity bond)が私の名前で登録されているということだった。そのような債権を持っていれば、システムは簡単には手出して来られなくなるのだ、と説明された。私は単にそれが保険契約のようなものだと思っていたが、連邦警察が所有地に近付かないようにしてくれるのであれば、何にせよ持っている価値はあるだろう。
 私がヨーロッパから戻った時、レリーからメッセージが残っていた。債権を有効にする為、書類に私の署名が欲しいという事だった。その後、我々は書類を仕上げたが、そこで彼はこの債権を現金化できることを教えてくれた。レリーの話では債権が現金化された場合、その価値の10%が私の物になるということだった。「私が研究を続け、この治療薬を主流医学として再び使用されるようにするために、50億ドルが私の物になると、そういうことなのか?」と訊くと、レリーは「そのとおり、必要ならばさらにね」と答えた。私はさらに訊いた「レリー、誰がこんな大金を持っているって言うんだい?」すると彼は笑って、私を安心させるように続けた「リック、さる重要な人物が、あんたに成功してもらいたがっているのさ。それがこの債権が、あんたのために組まれた理由だよ。」
 これが一体何なのかよく理解できなかった。彼が言っていることは、私にはさっぱりだったから。それで「まあ、どうなるか見てみようじゃないか」と言うしかなかった。私の活動を止めさせようとしている同じシステムの権力者が、この治療薬を世界に広めるために必要な資金を提供しようと言うのを、本当に信じるべきなのだろうか。私にはこれが、どこか茶番のような気がしてならなかった。そしてこの資金をコントロールしている人間達が、それを実際可能にすることがあるのだろうか、と強い疑念を抱いていた。レリーは債権を現金化するのには、少し時間がかかるが、それが済めば資金を得ることができると言っていた。その時は、他に色々と考えなければならないことがあったので、差し当たりこの件には、余り首を突っ込まないでおいた。
 別れ際、息子の調子はどうか訊くと、彼は「息子の調子はかなり良さそうだ」と答えた。レリーはオイルが息子を治癒してから、その治癒力について友達に触れ回ってくれていた。彼の地元では大勢が、オイルを治療薬として自分達で使用し、素晴らしい結果を得ていた。この治療薬がもつ治癒能力の事実を広める方法として、口コミが非常に有効だと気付かされた。オイルは色々な病気に対し、信じられないような効果を発揮したので、幸運にも治療を受けられた人々に、強烈な印象を与えたのだ。
 ヨーロッパを再訪するまで3週間しかなかったので、腕に縒りをかけて、出来るだけ沢山の治療を提供した。必要としていた量のバッツは、自分の収穫物だけでは賄えなかったので、地元の栽培者の協力も仰がなければならなかった。この間、私はいつも通り患者の来訪を受け、彼らに適切なオイルの製造方法を教え、何らかの理由で彼らが自分で作れない時は、代わりに精製を行った。患者はほぼ毎日、引っ切り無しに訪れ、車が出たり入ったりしていた。この頃はもうオイルの効果について、患者の説得にあまり時間を割く必要は無くなっていた。彼らの多くは、家の玄関に辿り着く時には既に、この薬の効果を知っていたのだ。患者とのやり取りは断然簡潔になっていたし、時間も節約できた。
 ヘンプオイルは次々と奇跡を起こし続け、私はオイル治療を受けた人々から素晴らしい報告を受けていた。例えば、アメリカから連絡をくれたバトヤ・スタークという女性はこのオイルの使用で目覚ましい効果を上げていた。彼女の80代前半になる父親は、アルツハイマーと診断を受けていたのだが、バトヤがオイルを摂らせたところ、程無くして健康で快活になり、さらに完璧な思考能力を取り戻した。
 その後医者に〝不治〟の皮膚病と言われていた、自分の息子を2週間で治してしまった。それから、もう長くないと言われていた叔父に、オイルを与え素晴らしい結果を得ていた。彼女は頻繁に連絡をくれ、起こっていることをリアルタイムで教えてくれた。バトヤはとても辛抱強く親切な女性で、私は会話の中でオイル使用に関して、色々なレベルの繋がりを感じることができた。このオイルの治癒力が並外れているのは確かだが、それに留まらず、オイルには精神的外傷の経験、所謂トラウマに苦しむ人を〝繋ぎ直す〟効果があるようだ。
 バトヤの父親はヒトラーの絶滅収容所の生き残りで、彼女は父親との意思疎通にいつも困難を感じていた。これは彼が経験したトラウマのせいだったのだが、この薬の使用は、そのような人が過去の出来事に対処するのを、助けてくれるようだ。彼女によると、父親は過去の記憶と折り合いをつけるのが容易になり、彼女はそれがとても嬉しい、ということだった。この様にオイルは、戦争等トラウマとなる恐ろしい出来事を経験した人達にとって、福音になると考えざるを得ない。多くの兵士が、その記憶と共に生きているのが辛いような経験をするが、このオイルは、彼らが目撃しなければならなかった残虐行為の記憶と、折り合いをつけてくれるのだ。しかも効果的で無害な方法で。これについてはバトヤだけでなく、私も素晴らしい結果を得てきたし、近い将来、トラウマ経験をもつ人々が苦しみから解放されるのを期待している。バトヤの様な人達と話すと、この薬が日の目を見る時は近い、という希望を貰えるのだった。
 全てに何とか追いつこうと奮闘したが、光陰矢のごとし、数日後にはヨーロッパに再び発たねばならなかった。警察は干渉して来なかったし、全ては好調だった。そんな時ジム・レブランクが亡くなったという知らせを受け、私は完全に打ちのめされてしまった。ジムと私は3年前、彼の末期癌を治療するため、オイルを提供してから、とても仲良くしてきた。最初にジムが私の所に来た時、彼は医療システムが与えた、多くのダメージに苦しんでいた。医者は最初に化学療法を試し、ジムを殺しかけた。それから彼は放射線療法を受け、この治療の影響で胸と背中は赤い革のようになってしまった。
 初めて連絡を取り始めた頃、彼は医療システムから「もう手の施しようが無い」と言われ、自宅で死ぬために退院させられていた。彼にとって幸運だったのは、奥さんが私のしている事を知っていたことだ。二人は私に会ってオイルを試してみることに決めた。彼に「これが終わる前に、担当の癌専門医は用無しになっていますよ」と言うと、驚いたことに彼は「いやいやリック、あんたはこの男を知らないんだ。彼は本当に私の事を案じてくれている。顔を見たら分かるよ。」と言って医者を庇うのだった。私は負けじと「ジム、どうして彼の心配が本物だと分かるんだい?演技に優れた才能を発揮する医者もいるんだ。恐らく彼も俳優に転職したら、オスカーがもらえるんじゃないか。治療の方はからっきしの様だから。」と軽口を叩いた。
 数か月後、この医者が本当は何物だったのかにジムは気付くと、彼を殺してやりたいくらいだと私に告白した。この自称「医師」はその時、間近に迫っていた裁判のため、ジムの容体に関する宣誓供述書を提供してくれたのだが、そこには嘘八百が並べられていた。ジムがそれを読んだ時、彼は完全に閉口して言った。「リック、奴らはこの薬を世間から隠す為に、口から出任せを言っているんだ。そうだろ?」私は答えた「やっと、からくりが見えてきたみたいだな。」
 今までの患者の中で、ジムは最もオイルに対する耐性が無かった。60グラムのオイルを消費するのに、7ヵ月を要したのだが、これは平均的な人の2倍以上かかったことになる。この60グラムのオイルを摂った後、シャツを脱いだ彼を見ると、放射線治療の痕跡はすっかり消え失せていた。今や彼は癌から解放され、絶好調のように見えた。数か月前の彼の状態から考えれば、奇跡が起こったとしか言いようがない。ジムは癌が消えたと宣告を受けていたが、私はオイルを飲み続けるよう指示し、最低でもメンテナンスできる量を飲むよう言いつけ、彼は同意した。ずっと後になって、彼が指示通りオイルを飲まなかったことを知った。その時、本当は何が起きていたのか、私には知る由も無かった。ジムはオイルを製作している他の供給源と連絡を取っていたし「彼らが必要なオイルを提供してくれる」とジムが言っていたからだ。私は呑気していたのだ。ジムと私の住まいは200キロ近く離れていたから、頻繁に会いに行くことはできなかった。それでも運良く会えた時の彼は、どんどん良くなっているように見えたので、私はジムが指示通りにしているのだとばかり思っていた。
 オイルが彼の癌を治癒してから数か月後、彼は心配そうな声で電話を寄越した。ジムは心臓に閉塞性の持病があり、医者は開胸手術を勧めていた。癌で死にかけていたので、手術はキャンセルされたのだが、癌が治癒したので、医療システムは再び手術の方向に進もうとしていた。ジムの持病については知っていたし、程無くオイルが閉塞を解消してくれるだろう、と期待していた。高コレステロール症やこの疾患を持つ他の患者達には良く効いていたからだ。もし、彼がオイルを適切に摂取していたら、そうなっていた可能性は高い。
 私はジムが、少なくとも定期的に最低限のオイルを摂っていると思っていたから、オイルが遂に治せない物に行き当ったのだと考えた。ジムは、彼らがしようとしている手術について、どう思うか意見を求めてきた。そこで「行って来いよ、そして手術を受けるんだ。あんたの身体はカンナビノイドで一杯だから、奴らが殺そうとしたって死にはしないさ。」と話すと、彼は安心した様子で、手術を受けることにしたようだった。実際はオイルを飲んでいないことを知らせてくれなかったので、私はてっきり彼の身体の中には、たっぷりとオイルがあるものだと思い込んでいたのだ。
 手術から二日後、私は集中治療室にいるジムを見舞うためハリファックスを訪れた。病室に入って行くと、彼は輝かんばかりの笑顔で出迎えてくれた。わざわざ会いに来たことを心底嬉しがっている様だった。彼は胸の真ん中を縦断する手術の傷痕を見せてくれた。その縫い目を見て、自分がそのような手術を受けなくて済んできたことに感謝した。我々が10分程話した頃だろうか、3人の医者が病室に入ってきた。担当医であろう真ん中の医者が、ジムを指差して言った「彼がジム・レブランクです。彼は開胸手術を受けた直後で、順調に回復しています。」それから加えた「レブランク氏はヘンプオイルを使って末期癌を治癒させました。」
 ジムは私を見た。何が起こるか知っていたのだ。私は椅子を回転させて振り返り、言った「その通り、ヘンプオイルがジムの癌を治癒させた。そして私がそれを提供した者だ。それで、他の患者達をこの素晴らしい薬で治療しないのは、一体何でなんだ?」突然、まるでガラガラヘビが足に巻きついたかのように、文字通り彼らは固まった。医者の一人が後退って「私はこれとは全く関係ありません。私は麻酔医ですから」と言い逃れようとしたので、私は「ああ、麻酔医か。だがあんたは大麻が、人類の手にした最も安全な最初の麻酔薬だと知らないのか?それから、あんたらが麻酔だといって投与するクズが、多くのケースで脳にダメージを与えていることも知らないようだな!」と追い打ちをかけた。
 彼らはお互いを踏み越えんばかりに、急いで部屋を出て行こうとした。ジムは枕を胸に押し当てて、満面の笑みを浮かべていたが、頬を涙が伝っていた。胸の傷のせいで彼は普通に笑うことができなかったのだ。数分後、再び喋れる程に落ち着いて、平静を取り戻すと、彼は言った「リック、今までこんなの見たことないね。医者達の怖がりようといったらなかったな。」私は笑って答えた「真っ当な質問をするだけでいいのさ、そうすれば、この自称医療専門家達には逃げ場がないんだ。」
 ジムの術後経過は順調で、間もなく退院した。勿論彼が、他の供給源からオイルを得て飲んでいるものと思っていた。それから数か月して、癌が再発したと言って、ジムが電話を寄越したので、私は度肝を抜かれた。そして思わず訊いた「ジムそれは有り得んよ。オイルはどれくらいずつ飲んでるんだい?」そこで遂に、彼がオイルを全く飲んでいないということを知ったのだ。その時、良い材料は非常に乏しかったが、私は何とか6グラムチューブ4本分のオイルを掻き集め彼に送った。これで治療が再開できるはずだ。
 私は癌が消えたと宣告を受けてから、何度のCTスキャンを撮ることを医師に許可したのか彼に訊いた。彼は4、5回受けるのを承諾したと言った。私は「ジム、CTスキャンがあんたの癌を再発させた原因かもしれない」と説明した。彼は私が意味するところを理解した。どんなに小分けにしたところで、放射線はDNAを傷付け、細胞変異の原因となる。一回のCTスキャンで浴びる放射線量は、スキャンが最少の設定であっても、胸部X線の200倍である。その一回のX線照射であっても人体には有害なのだ。X線の周りで働く人間は、何の理由も無く、あの大きな鉛のエプロンを着けているわけではない。
 およそ3ヵ月後、再びジムから電話を貰い、彼の癌が再度治癒したと報告を受けた。どれくらいオイルを摂ったか聞くと、4本目のチューブがまだ終わっていないという答えだった。私は「ジム、オイルは体の中にないと働いてくれないんだ。今俺の所には材料が無いから、治療に必要な残りの分は、近くのルートから手に入れてくれ。」と忠告した。どうやらジムは4本目のチューブを飲み終えたようだったが、忠告通りに、治療に必要な残りの分を他のルートから手に入れることはしなかった。私はこれを知り得なかったし、今度こそ私の言う通りにしてくれているものだと思っていた。
 私がハリファックス周辺で講演する時、ジムはいつも参加するようにしてくれた。彼の存在は皆を楽しくさせたし、ざっくばらんな人柄の魅力には誰も抗えなかった。彼は自分の飲酒問題の解決のために、アルコール依存症の互助組織であるアルコホリックスアノニマス通称AAにも参加していた。AAは本来ドラッグの使用に反対しているが、ジムは自分がアルコール依存から抜け出せたのは、マリファナのおかげだと思う、と公言して憚らなかった。ジムのような人間が聴衆を前にしてこういうことを話すと、発言の真実性に対する疑問が出ない。彼の自分を制御する様は本当に称賛に値するものだった。彼の妻シェリーはオイルの治癒能力について「Jim’s Cancer Journeyジムの癌との道行」と題した素晴らしい文章を書いてくれた。彼らはこの治療法について他の人達と話す気満々なので、我々は自分達のサイトに、この文章を彼らの電話番号と一緒に掲載した。ジムとシェリーは本当によくやってくれて、何百人という人達と話してくれた。そして苦しむ人々に希望を与えた。彼らと事前に電話で話してから、私の所に電話を掛けてくる人達が結構いて、彼らが治療について語ったことで、仕事がし易くなり、随分と助けられたものだった。
 私が知る限り、ジムは癌も治り、健康面では問題が無いはずだった。そして2009年9月、彼は電話して来て、癌が再発したと言った。多少の労力は費やしたものの、私は彼の為にオイルを用立ててから、チェコ共和国に発った。過去の経験から彼が24グラムのオイルを消費するには暫く掛かると踏んでいたので、私が戻るまで十分持つはずだった。その後、チェコツアーから戻ると、直ぐに私は10本の完全治療セットを作って彼に送った。その時かなり忙しかったこともあり、ジムの本当の状態に気が付かないでいた。そしてある日、シェリーが電話して来て、彼が亡くなったことを伝えたのだ。
 どうやらジムは、私が最近提供したオイルの中の、6グラムチューブ一本しか使わなかったのが明らかなようだ。シェリーとジムの二人が、本当はどれだけ事態が深刻なのか気付いた時、シェリーはジムに、なぜ私が指示した通りにオイルを摂らないのかと詰問した。その時彼はただ項垂れて、何も答えられなかったそうだ。私は深刻な癌を抱えている患者にいつも言っているのだが、オイルは出来るだけ早く摂り始めるのが最善だ。もたもたしていると、生き残るチャンスは大幅に減少し、オイルは逝くのを楽にしてくれるだけとなる。ジムはメンテナンスのための最低限すら服用していなかったし、二度目の治療も完遂していなかった。この事実と、心臓の手術後も医療システムに、さらにCTスキャンを撮ることを許したことが、ジムの死に大きな役割を演じたのではないか、と私に思わせるのだ。最初にジムの治療に取り掛かった時から、彼は10回のCTを撮っていた。最終的に放射線の悪影響と、彼自身の治療を適切に完遂する意思の欠如が、癌の全身への転移を許し、彼に死をもたらしたのではないだろうか。
 ジムは一線を越えてしまい、その代償を命で払うことになった。しかしそれでも、彼と同じような状況にいる大多数と異なり、少なくともオイルを使用することにより、彼の死は平和で威厳に満ちたものだった。彼は死んでしまったが、それでもオイルは役に立ったのだ。個人的な意見を言えば、治療を適切に完遂し、医療システムとCTスキャンを退けていれば、彼はもっと長く生きられたのではないかと思う。しかし、それも後の祭りだ。それでも、オイルの使用は彼に最低3年の余命を与えたわけだし、その時間は無駄にはされなかった。ジムはオイルの偉大なスポークスマンだったし、彼の存在はその人生に関わった人々から、惜しまれる事この上ないだろう。私に言える事はこれだけだ「良く眠るのだ、友よ。やっと安息を得られたのだから。でもこれからいつも寂しくなるよ。」
 多くの人々が、医療システムにこんなにも害悪を与えられながら、彼らに背を向けることができないでいることに、私は嫌悪を隠せない。その代表例は、状態の悪いある男が私の所に治療を求めて来た時のことだ。彼は上腹部に大きな腫瘍二つと、喉にも大きな腫瘍を抱えていた。6週間の治療の後、彼は電話して来て腹部の二つの腫瘍は消え去り、喉の腫瘍は大きさが十分の一に縮小したと報告をくれた。
 それから彼は、2週間後にCTを受けて、自分の経過を見てみるつもりだと言った。私は「何でそんなことをするんだね?」と訊いた。彼は「他にどうやってオイルの効果を知れるんだい?」と答えた。私は説明した「あんたは自分で腹部にある二つの腫瘍が完全に消え、喉にあるやつも、ほとんど消えるところだと言ったじゃないか。なぜわざわざ医療機関で放射線の大量被曝を受けなきゃならんのだね。自分の目が真実をあんたに語っているじゃないか。」
 これが私の関わる多くの人々の習い性となっているのだ。彼らはそれが真実であると知るのに、白衣を着た人間から聞かなければ納得いかないらしい。患者の身体のことを患者自身以外に、どこの誰がよく知っているというのだろう?自分自身の体のことなのに。本当に彼らは自分自身の健康度を確認するために医療機関に戻らなければならないのだろうか?その同じ医療機関が最初の段階で、彼らを病気から助けられなかったというのに。そして大量被曝を強要するスキャンを撮って、自分が既に知っていることを教えてもらうのだ。
 これが多くのケースで起こることであり、よく癌が再発するのだが、患者はなぜなのか分らない。多くの場合、医療機関こそがこの悲劇の原因なのだ。その狂った治療法とスキャンが人々の深刻な病気を引き起こしている。我々は皆、自分達の医者が提供しようとする治療法について、自分自身を教育しなければならない。そして、被害の原因となることを医療機関に許す前に再考するのだ。他の多くの人達の貴重な命を代償として支払った、同じ間違いを犯してはならない。もしあなたの医者が、提供する治療に対する、あなたの心配を無視しようとするならば、その医者に自分自身で提案している治療を受けるように言えばいい。そして、命が惜しかったら、そんな医者の世話にはならないことだ。この私の主張を戯言だと思う人もいるかもしれない。しかし、もし化学療法や放射線療法の影響で死んだ人間を見たことがあるなら、私の意味しているところが分かるだろうし、これが自分の命を助けることになる忠告だと気付くだろう。
 アムステルダムでのカナビスカップへの私の旅費は、グリーンハウス・シーズがスポンサーになっていた。彼らはオプションとして同行者を伴うことを申し出てくれており、こちらとしても誰かが一緒に行ってくれるのは願っても無いことだと思っていた。私は当初、リック・ドゥワイヤーを伴うつもりでいた。我々は親友だったし『Run from the Cure』にも出演していたからだ。残念なことに、リックは飛行機が嫌いで、他の誰かを連れて行くことを提案した。そこで、エリックとデビーのドンキン夫妻を誘った。その時、彼らはやらなければならないことが山ほどあり、一緒に来ることはできなかった。その時丁度、スコット・カリンズのことを思い出した。彼は人々にオイルを供給し続けていて、大きな成果を得ていた。そこで彼に電話して、一緒に行かないかと誘った。しかも顎足付きだと。すると彼は一秒も躊躇うことなく「いいね。是非行きたいよ。」と返事した。彼はパスポートをとり、必要な物全てを揃え、カナビスカップ参加の為、2009年11月20日、私と一緒に飛び立つ準備は万端となった。
 ヨーロッパへ発つ準備が整った頃には、全てに大体の目途をつけられていたが、それでも、道すがら患者にオイルを届けるため、空港までオイルを持って行かなければならない程だった。それまでの3週間は殺人的だったが、やっとのことで何とか出発できると感じていた。作業する価値のある材料は全然残っていなかったが、戻った時に必要な原料を、他の栽培者から手に入れる算段はついていた。私が育てたバッツと他の供給者から購入したものは、オイルに変えられ患者達に配られていた。材料を〝洗って〟残った物は自宅裏の丘の斜面に、何年分もの廃棄された処理済の素材とともにばら撒かれた。
 私の家は、2003年に旅行中で留守にしている間、泥棒に入られた。そして2008年、私が裁判に出ている間にもう一度。多くの物が無くなってはいたが、これらの事件を連邦警察に通報する手間はかけなかった。私の家に押し入った者達より彼らの方こそ本物の泥棒だと思っていたからだ。私は自分の家がめちゃくちゃにされ、犯罪者と警察に物を盗られるのにうんざりしていた。それで彼らを遠ざけるため、私の息子は防犯カメラの掘り出し物を探し当て、監視の為にそれらを導入した。もし、また侵入があったならば、最低でも誰が犯人なのか知ることができるだろう。
 全ての戸締りは済まされようとしていたが、追加の用心として、トラックを家と道路の中間に駐車しておくことにした。そこからメインの車道までは100m以上あり、こうしてトラックを停めておけば、車で入ってくることは出来なくなる。少なくとも、また泥棒が私の家を〝片付け〟ようとした時、今度は盗んだもの全てを逃走用の車まで運ばなければならなくなる。自分の所有物に対する防犯で、これ以上のことは思いつかなかったし、息子が入れてくれた防犯システムにも満足していた。他に出来る事は余り無かっただろう。
 飛び立つ前の晩、ニューブランズウィック州サックビルの二人の兄弟、ジョンとアレン・スペンクリーがマウントアリソン大学のラジオ番組に私を出演させた。ジョンとアレンはフリーマンオンザランド運動に関わっており、二人とも非常に理知的な人間だったので、一緒に仕事をする機会に恵まれたのは幸運だった。私はチェコの大麻関連出版Konoptikumにまた記事を書いていたので、それをリスナーに読んで聞かせた。私は現実に何が起こっているか説明し、我々3人は、その日チャンネルを合わせてくれていたリスナーに、多くの情報を提供することができた。
 ヨーロッパへ旅立つ予定の日、スコットは時間通りに現れ、隣人のルビー・ビャルネイソンが我々をハリファックスまで乗せてくれた。この前に私がチェコ共和国ツアーに行った際、私は携帯電話を持って行かなかったので、多くの人が驚いていた。実の所私は、誰の物であろうと、携帯電話は使われるべきでない、と考えている。我々全てに危害を及ぼす危険性があるからだ。今日、老いも若きも、まるでそれと一緒に生まれてきたかのように、この装置を頭の横に引っ付けて歩き回っているようだが、彼らの健康と命はこの装置により危険に曝されていると、私は信じている。こんなにも多くの人々が、これらの装置の広範囲な使用を安全と考えている根拠は、一体どこにあるのだろうか。これらの機械が放射している電磁波は我々の身体機能を正常に作動させるための電気信号を阻害するかもしれないのだ。我々の健康に対し、この新しい電磁波技術が及ぼす危険を、世間が理解すれば、それについて早急に何かなされるのは確実だが、電話通信会社は危険性を控え目に見積もっている。
 警察が自分達で通信に使っている無線だって、彼らに癌をもたらしているのだ。我々はよく、喉に程近い胸元に、警官がこれらの装置をぶら下げているのを目にする。電磁波の放射によって頸部に癌ができるというのは、良く知られている事実であるのだが、もし警察官がこの装置の使用を拒否したら、彼らは失業することになるだろう。少なくとも30ヵ国の警察組織でこの技術は使用されており、システムはどれだけ早く腫瘍が形成されるのか、人知れず研究中である。現在支配的地位にいる者達にとって、それら全てはただの実験に過ぎない。そして多くの国の軍隊にも同様に、この政策が浸透していると私は踏んでいる。
 簡単に言うと、システムは自分達が様々な分野で雇用している人間達の命で遊んでいるにすぎず、彼らの健康や福利には全く関心が無いのだ。私の知るところでは、国連の規制(ヘルシンキ宣言?)が人体実験を禁止しているはずだ。対象者にその実験の完全な知識と同意がある場合を除いて。法執行機関や軍隊で、腐敗したシステムの為に働いている人間達は、結果的に、彼ら自身に危害を加えている人間を守っているのだ。もし読者が自分で、私の言っていることが本当か確認したいのであれば、Barrie Trowerバリー・トロワー氏がこの問題について言っていることをインターネットで聞いてみると良い。YouTubeでDangers of Microwave Technologyを検索するだけだ。トロワー氏の見解を聞いて、よく考えてみた方がいい。兎に角ご覧の通り、私にとって携帯電話は、他の健康を害する新しいテクノロジー同様、無用の長物でしかないのだが、皆を安心させておくために、大人しく一台買うことにした。ただ一つ問題なのは、今まで私は携帯電話を使ったことがなかったから、どうやって使ったらよいのか分らなかったことだ。
 スコットが私の家に着いた時、彼にこれらの機械の使用に通じているか訊いた。彼は問題無く使えるようだった。「私はあんたが考えつく病気を何だって治してしまう精油を、ある植物から精製できるが、携帯は使えない。大したもんだろ?」我々はこれらの装置を操作できない私の機械音痴で大笑いしたが、実際、今日の電話のこれらの小さなボタンやその機能は、私の理解の範疇を超えていた。程無くして、スコットもこの装置の操作に問題があることが証明された。ヨーロッパに着いてからは、この電話をちゃんと機能させられなかったのだ。
 私にとって携帯電話は、その使用が安全でないと感じる現代技術の一例に過ぎない。しかもそれは、私のような育ちの人間を簡単に困惑させ、ストレスの原因となる。60年間携帯電話無しで生きてきたのだから、今更必要だろうか?というのが正直な所だ。まあしかし、皆がそれで安心するのであれば、時流に従って、自分の旅路に一つ伴って行くのも仕方が無いだろう。