不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第12章

第十二章 バナナボートから振り落とされたら

 2008年の春から夏、この頃になると私に接触してくるのは、助けを求める患者だけではなくなっていた。様々なトピックのEメールや電話が引っ切り無しに来るようになった。それでも、私のいる狭い世界以外でこの問題がよく知られているとは思っていなかった。我々のドキュメンタリー映画『Run form the Cure』が公開されてから、我々のウェブサイトは俄然アクセスが増えたが、私は人々の需要に応えるために忙しすぎて、それにかまけている時間が余りなかった。
 我々のウェブサイトの管理にラリーは尽力し、すばらしい仕事をしてくれた。しかしながら、ダイヤルアップでアクセスの増加に対応するのには限界が来ていた。事態に遅れをとらないようにするためには高速回線が必要だった。私と連絡を取り合うようになっていたアムハーストのスティーブ・リッジウェイという有志が、この問題を解決するために、 サイト運営のボランティアを申し出てくれた。彼の家にはブロードバンド接続があった。我々のリトルフォークスではまだそのサービスは受けられなかったので、私はラリーと相談し、スティーブにその作業をやってもらうことにした。サイトがここまでやってこられたのはラリーのお陰だったが、彼は文句一つ言わずそこから身を引き、舵取りをスティーブに託した。今やその役目から離れたとはいえ、ラリーと妻ルビーの多大な貢献は感謝されるべき功績だったことをここに讃えたい。二人の努力無しに「フェニックスティアーズ」の成功はなかっただろう。
 フェニックスティアーズのウェブサイト運営は頭痛の種になってきており、スティーブも既に自分の役割にプレッシャーを感じ始めていた。彼は社会に対して、この治療薬の効果に信念を持っていたし、サイト運営に尽力してくれていた。彼が我々のドキュメンタリーDVDを何千枚もコピーしてくれたお蔭で、我々は無料でそれを配布できたことをここに付け加えておく。つまり彼は、この活動における宣伝部長として大いに頑張ってくれていた。頒布するための書類を印刷するため彼が使い潰したプリンターが何台だったか、私には定かでなくなるほどだった。どこを見渡しても、スティーブ・リッジウェイ程のできる男で、これほどの時間を無償の奉仕に費やしてくれる人間を、我々は他に見つけられなかったに違いない。この活動は私一人が責任を持ってやっていると思われているが、ご覧の通りそれは事実とは程遠い。人類に対する純粋な良心に動かされている大勢の人々の努力によって、今起きていることが実現したのだ。
 2008年晩春のある日、カナダクロニックペイン協会(カナダ慢性疼痛協会)のテリー・ブレムナーから電話をもらった。これに先立つ数か月前に、ハリファックスで私が行ったセミナーの一つに彼は出席していた。彼は、自分達がこの秋に行う大会で講演をする気があるか、と尋ねてきた。「もちろん」私の目標はこの知識を敷衍することにあるから、一も二も無く承知した。ここで彼と数分会話したが、テリーは「リック、医師達をあまり酷くやりこめないでくれよ。」と窘めたので、私は答えて「テリー、俺が話すのを聞いただろ。上品なもんさ。」と言い、二人で笑った。実のところ私は、カナダ慢性疼痛協会が何なのかさえ良く分っていなかったのだが、もっともらしい名称であることは見て取れた。
 その時は、テリーの態度が高潔で公明正大だと感じられた。彼は以前、私が喋るのを聞いていたし、慢性的疼痛に対しヘンプオイル以上に優れている物などあるだろうか?しかし後で知ることになるのだが、この時の会話で私が論調を緩めるのに合意したとテリーは考えていたらしい。明らかに行き違いが生じていたが、私はこの会話を全くそんな風に捉えていなかった。実際もしそうしていたら、私はこの講演を受けなかっただろう。このテーマに関して一切の妥協など受け入れ難いことなのだから。
 当初彼は私に45分の講演を依頼した。そこでその時間枠のセミナーを用意したのだが、後になって、彼は電話してきて、持ち時間が10分に減らされたと報告をくれた。彼は「こんなことになって申し訳ないが、1月に開催される集会でもう一度講演して欲しい」と言った。彼の言ったことに心躍ったとは言い難いが、1月に予定されている講演に向け、彼らが心の準備をするため、私にこの10分の講演をさせるのだろうと解釈した。それで私は承諾し、発表のための原稿を仕上げておくと彼に伝えた。
 会議は2008年11月にハリファックスのダルハウジー大学で開催され、およそ三百人が参加していた。イベントが行われるホールに入ってすぐ、私の目に製薬会社によってセットされた大量の看板が飛び込んできた。私はなぜこれらの看板がここにあるのか理由を知ろうとしたが、そこで、慌ただしく会議が開会された。テリーが最初に壇上で発言し、司会者がそれを引継ぎ、ついに主講演者が演壇に立った。講演者はメリー・リンチ博士で、彼女はカナダ慢性疼痛協会の新しい会長に任命されることになっていた。
 彼女が話したことは、多発性硬化症の患者に太極拳に似た運動をさせるというものだった。私にとって彼女の講演は戯言に聞こえた。過去の経験からヘンプオイルがとても効果的に多発性硬化症を治してしまうか、制御するのを知っていたからだ。それなのにこの医者は痙攣性の痛みを伴う病気の患者に運動をしろと言っているのだ。私は辟易した。そして遂に私がマイクをとる時が来た。当然、私は医療システム全体に対する怒りをぶちまけた。私が書いた10分の原稿は短いものだったが、的を射ていたことは確かだろう。私が医師だと推測する何人かの聴衆は、ただ座って私を睨み付けていたが、大多数は私の話したことが気に入ったようだった。テリーは私の話でパニックになったようだが。私の発言は彼にとって強烈すぎたのだろう。私が観衆に話している間に、テリーはステージに上がり、私の後ろに立った。私には見えなかったが、観衆には彼が青くなっているのが見えたことだろう。彼が私を舞台から下ろしたかったのは間違い無いだろうし、事実彼は私を遮ろうとしたが、私は終いまで続けた。
 その後で、私はリンチ博士に紹介された。誓っても良いが、彼女の目には憎悪の炎が燃えていた。彼女の口から出てくることは、次のような否定的なナンセンスだけだった。「この治療薬を世に出すには何百億というお金が必要になるでしょうね。」「いえいえ、誰でもこの植物は簡単に育てられますし、実質、誰でもオイルを作ることが可能なんです。あなたのご指摘にある大金が何のために必要なのか私には分かりかねます。この治療薬はよく効くし、その使用を再開しないなんて完璧に馬鹿なことです。大麻草の医薬品としての本当の歴史を辿ればはっきりしています。その有用性は否めません。」
 言うまでもないことだが、リンチ博士は私が言ったことに感心しなかったし、彼女の木で鼻を括った態度に、私も感心しなかった。自分達を医師と称する人間が、患者の健康について少しでも気にかけているのであれば、私の言ったことを無視できるはずは無いのだが。カナダ慢性疼痛協会が、慢性的な痛みや病気に苦しむ人々のことをあまり気にかけていないか、若しくは全く気にしていないのは、私にとって完全に疑いようがなかった。
 数日後、テリーは憤慨した様子で電話を寄越した。どうやら1月にはもう講演はしなくていいようだった。「リック、あなたのあの短いスピーチのおかげで、数千ドルの寄付がパーですよ。」彼は私に謝罪を期待しているようだった。その代わりに私は訪ねた「誰からの寄付だい?」「誰って、もちろん製薬産業ですよ。」彼の答えは私にとって意味不明だった。「テリー、自分の言っていることを能々考えてみてくれ。この苦しみの原因となっているのは製薬産業じゃないのか?そしてこの治療薬の使用に立ち塞がっているのもそこだろう。カナダ慢性疼痛協会の第一目標は慢性の痛みに苦しむ人達を助けることにあるんじゃないのか?」私は続けた「テリー、あんたが関わっている組織は完全なる偽善だよ。この件が終わる頃には、こういう組織の多くが、その実態を世間の目に曝されることになるだろうよ。」これ以降テリー・ブレムナーやカナダ慢性疼痛協会からは、二度と連絡がなかったことは驚くに値しない。
 2008年晩春には、私のしている事を非常に多くの人が認識するようになっていた。ハリファックスのCJCHラジオが連絡して来て、生放送に電話出演しないかと尋ねてきた。当時このラジオ局で、リック・ホウがパーソナリティを務める電話相談番組は、ノバスコシアで非常に人気があり、ファンが大勢いた。リック・ホウはおおらかな性格だったので、彼との仕事は楽しかったし、インタビューはとても上手く行った。この番組には多数のリスナーがいたので、これは私が医療システムと一戦交えるのに絶好の機会をくれた。
 私の提案はこうだ。まず医療システムの治療を受けたい癌患者を6人集め、それからヘンプオイルでも同様に6人集め、計12人の結果を検証する。もしこれが公開で行われれば、私が言って来たことが金輪際、真実だと分かるだろうとリスナーに呼びかけた。予想通り、医療システムは私の挑戦を敬遠し、大衆からは抗議の声が上がらなかったから、何も起こらなかった。しかしながら、その日の放送はとても説得力のあるものだったし、最初に電話を掛けてきた人の中には、オイルを使って自分の末期癌を治癒させてしまった男性もいた。リック・ホウの番組を楽しんでいる大勢のリスナーがいたはずだから、我々はかなりの数の人々に真実を伝えることができた。これは私にとって大収穫だったと言える。
 2008年夏の間、私の良い友であるエリックとデビーのドンキン夫妻がカナダを離れ、エクアドルの試みを見に行った。彼らは私のように、カナダという国に大きく幻滅するようになっていて、他にましな国を探していた。私はエリックの父ケイスにオイルを提供したことがある。彼は末期の肺癌だった。ケイス・ドンキンと最初に会った時、彼は手に煙草を持って「あんたは儂に煙草を止めろと言うんだろうな。」と言った。ケイスは79歳で、両肺に癌があり、肺機能は70%まで落ちていた。彼が診断を受けた時、肺癌が余りにも進行していた為、医師達は治療を申し出ることも無く、単純に「余命3ヵ月です」と告知して、家で死ねるようにと退院させた。私は「治療の間煙草を吸おうと吸うまいと、私は構いませんよ。」と彼に話した。もう何十年と吸って来ている訳だし、それに彼がオイルを摂ることに同意したのも、それが唯一の理由だと思う。
 リック・ドゥワイヤーがその日共に来ており、彼は私の発言に賛成できないようだった。「あんなことは言ったらいけないよリック、煙草が健康に悪いのは知ってるだろ。」私の答えはこうだった「もちろんそうさ、でもケイスは今までの人生、ずっと煙草を吸って来たんだ。今更止めさせたって効果なんてほんの僅かだよ。いいかい、俺らは二人とも50代で、ガキの頃から今までずっと煙草を吸って来た。煙草が本当に死を招くものなら、なぜ俺達はまだ生きてるんだ?あんたも知ってるだろうが、依存性を増す為に煙草に添加されてる化学物質が害を及ぼしてるんだ。ただ、今回のケースじゃ、大して違いなんかないさ。」彼は呆れ顔で私を見ると頭を横に振った。この件に関しての議論はここで終わった。ケイスは治療中、一日2パックの煙草を吸っていたが、彼の回復に全然影響は見られなかった。90日後、彼の両肺は綺麗になり、呼吸機能は100%に回復した。彼は今や治癒し、医師がそれで死ぬだろうと宣告した病気から完全に自由になった。
 エリック自身も最初に知り合った時は50代に差し掛かったばかりだったが、いくつかの深刻な健康問題を抱えていた。我々が出会うまでに、既に四回の開胸手術に耐えており、下腿の血栓症が残したダメージから生じる酷い痛みにも苛まされていた。彼は明らかに健康な男ではなかったし、彼の顔は土気色に見えた。エリックは今まで、医療システムが寄越す依存性のあるどうしようもない化学物質を摂らされてきた。だが、それは彼の状況を改善するのに一向に役に立たなかったばかりでなく、副作用でさらなる問題を生じさせるだけだった。
 それで彼もオイルを使い始めた。しかし、彼の父親のような癌患者が必要とする消費量より、遥かに少量だった。彼がオイルを飲み始めてから4ヵ月後のある日、エリックと彼の家で話していた。この時までに、彼は以前より断然具合が良さそうだった。その時の会話で、彼は自分の腎機能が正常に戻ったと教えてくれた。開胸手術のような治療は、受ける度に腎機能を低下させる。エリックはそんな手術を四回も受けているのだ。オイル治療を始める前は、彼には僅かしか腎機能が残されていなかった。今や彼の腎機能は正常に回復し、我々は二人とも彼の進歩をとても喜んでおり、なぜそれが起こったのかハッキリと認識していた。
 さらに彼は、何年も前に怪我をした肩と腕も、再びちゃんと動くようになったと教えてくれた。およそ十年前、四駆車をぬかるみから引き出そうとして、エリックは肩の靭帯と腱を断裂していた。この怪我の後、彼の腕には使用に酷い不自由が伴った。医師は、できることは何もないから慣れるしかない、と彼に言った。エリックによると「何日か前の晩、頭がかゆくなってきたんで、そこに座って頭を掻いてたんだ。そして何か違うと気付いた」のだそうだ。意識せず、彼は悪い方の腕で頭を掻いていて、突然それに気が付いたのだ。腕がまたちゃんと動くようになっていた。しかし、言っては何だが、この時までには、毎日のように人々が、自分達の病状にこのオイルが奇跡を起こした、と連絡を寄越していたから、これは私にとってさして特別な事ではなかった。
 デビーとエリックはこの治療薬の使用で素晴らしい効果ばかり得ていた。例えば、エリックは以前より断然歩くのが楽になり、必要だった装具も最早使わなくて良くなった。彼はまだ痛みを感じていたとしても、それは許容できるものだったし、血栓症が下腿と足に残したダメージもかなり減っていた。オイルの効能を実感した二人は、大いに私を支持するようになってくれた。
 時が経つにつれ、彼らはこの件に関するシステムの不作為が頭に来るようになっていた。カナダ政府の無関心に辟易していた二人は、新鮮な空気と自由を強く希求していた。彼らと離れてしまうのが寂しかったので、私は正直、行って欲しくはなかったが、幸いにも彼らは1ヵ月程で南アメリカから戻ってきた。彼らはエクアドルの生活を気に入っていたが、その時点での情勢は、信じていたほどには安定していなかった。その上、その地域の気候は前評判とは全然異なっていた。彼らによると、雨が物凄く多く、道路も度々水没するので、旅行するのも一苦労だったそうだ。
 彼らは探し求めていた物を見つけられず、カナダに戻ってきた。彼らには悪いが、これ程私にとって喜ばしいことはない。それからエリックとデビーは一番近い電柱から7km離れた所に土地を買った。彼らはまるで、木の洞に棲む2匹のリスみたいに幸せそうだった。実の所、送電網から離れ再び自然と共に暮らすことに幸福を見出す彼らの様な人間が、この世界には少なすぎることが残念に思えてならない。
 エリックとデビーが帰ってきてすぐ、アムハーストにいる彼らの友人が私に電話を掛けてきた。その男性は前立腺癌を患っていた。私と話した後で、彼は自分でオイルを精製してみることに決め、自身の病気に使ってみるとのことだった。2ヵ月程経って、彼はまた電話してきて、時間があるなら彼の自宅に寄って行ってくれ、と言った。彼の家に着くと、今は癌が消えてしまったと聞かされた。自己治療の結果に彼が満足しているのは一目瞭然だった。それから私はコーヒーをよばれたので、椅子に腰かけた。「リック、医療システムが私に何をしようと計画していたか知ってるかね?」と彼が訊いたので、彼らが何をするつもりだったか手に取るように分かると伝えた。彼は医師達の提案を聞かなくて幸いだった。
 彼によると、医師達は放射性物質のビーズを彼の前立腺に埋め込むつもりだった。そして、その治療の後、夫婦の営みはもう不可能になると彼は告げられた。それに加え、自分の孫を膝の上に載せることも許されなくなるのだった。彼の表情が全てを物語っていたが、彼は口を開いて「医療システムのボンクラどもは一体何を考えているんだろうな。もし彼らにその治療を許していたら、私の人生は台無しになってしまうところだった。そしてもしその後で、私がこの治療薬のことを知ったら、あの白衣を着た連中の誰かが痛い目を見ていたことは、間違いないね。」
 過去数年間、私は複数人から同じような物言いを聞いていた。これらの復讐の企てを、会話を盛り上げるために使っていることは、間違いないだろう。そうだとしても、医師達は同じ方法で患者の多くを不具にし続けているから、これが実際に起こるのは時間の問題だと思う。むしろ既に起こっている可能性も十分にある。私が治療した患者の多くが、自分達を治療した医師に苦言を呈したことを私は知っている。もし実際に医師達に対して何か暴力的なことが起こっていたとしても、ニュースでそれが聞けるとあまり期待しない方がいい。なぜなら、それが広く報道されれば、他の全ての医師達がパニックを起こすだろうから。
 クリスチャン・ローレットによって我々のドキュメンタリーが公開されてから、我々が受け取るEメールと電話は、圧倒的に増えた。多くの人達が一攫千金の計画を我々に売り込もうとしてきたが、私はそんなものに興味は無かった。病気の治療のために人々にオイルを供給し始めた当初から、このオイルが製薬会社に乗っ取られることは許さないと明言してきた。この治療薬は人々のものであり、製薬会社はその製造や使用をコントロールする権利を一切有しない。他のどんな組織も同様だ。私の志は「不死鳥の涙」が人類のより大きな善のために働く存在であり続けるというものである。病気で貧困にあえぐ人々は、この治療薬を無料で自由に使えるようになるべきである。あなたは製薬会社がそんなことをすると想像できるだろうか?それがもっとも有り得ないことだとすぐ気付くはずである。
 この治療薬は安価に生産できるから、基本的に寄付か、または無料で、貧しい人達の手に届くものにすることが、完璧に実現可能である。私がオイル生産施設の責任者になったとしたら、公衆に対して、出納を包み隠さず公開する方針をとるだろう。我々が何をしているか知りたい者は誰でも、単純に帳簿を見に来ることができるようにし、何も秘匿しない。こうすることで、腐敗の介在を許さず、人類に対して大きな貢献ができるだろう。地球上の全ての国でオイル生産複合体が自国民の医薬の需要を満たすため、オイルを供給する日が来るのを生きている間に見たいものだ。
 これが起こる時には、適正な心構えをしているのであれば、私はいかなる政府とであろうと、手を組むことに吝かでない。付け加えると、彼らが自分達だけでなく、本当に人々を助ける意図があるのであれば、これは可能な限り素早く行われて然るべきだ。これはもう既に選択肢の問題ではないのだ。もし、人類が生き残りたいのであれば、何かがなされなければ。ジャック・ヘラーが絶えず言っているように「理性的な解決策は大麻のみ」である。大麻を基盤とした地球にやさしい産業が、どれほど多くの雇用を生むか考えてみていただきたい。我々は既にこの惑星を十分汚染してきた。そろそろ手遅れになる前に道を変えるべきではないか。
 この世界があるべき姿になるために、我々は常識を用いるべきだ。その常識とは、大麻が地上最大の産業になり得るということであり、大麻に基づいた経済が、非常に短時間で構築可能だということだ。こんなに沢山の人々に、目の前にあるものが見えていないことに、私は臍を噛む思いだ。こんな風に人々が行動するのは、単に真理に対して無知なだけなのか、それとも、自分達の目の前で起こっていることに本当に全然同調できていないか、そのどちらかだろう。
 この数十年の間に我々がこの星に与えたダメージは、それまでの全人類史を合わせた物を上回っている。どんな人間がこんなことを際限なく続けられると信じられるのだろうか?誰だってわかるはずだ。それでもなお、我々は羊の群の様に突っ立って、巨大資本がその利益の為に我々全てが住むこの地球に起こす破壊を沈黙の内に見ている。あなたがもし、待っていればその内、科学技術が我々を救ってくれる、と思っているのであれば、あまり期待しない方がいい。人類が直面している恐ろしい状況の中には、我々自身の素晴らしい科学技術の使用でもたらされたものもある。我々人類を含め、全ての生命が暮らすこの地球を破壊する完璧な組み合わせが、ハイテクと非常識なのだ。
 2008年夏、私が何年もの間飼ってきた大きなメス犬のスージーが、遂に天に召された。スージーは我々と住むようになった時には少なくとも6才を超えていた。それを考えると18才かそれ以上まで生きたことになる。スージーは愛嬌満点の犬で、窒息死しそうになるまで人の顔を舐めまくるのを、この上ない楽しみにしていた。スージーには攻撃性が皆無で、皆に愛されていた。しかしながら、彼女がポットヘッド(大麻常習者)であったことを認めなければならない。ジョイントを持って座っていると、彼女はすぐさま目の前に来て「1ヒット(一服)くれよ」と言い出さんばかりだった。彼女は生来のコメディアンで、彼女と一緒にいるのは本当に楽しかった。
 スージーが死ぬ1年半前、彼女が段々と弱って行くのに気付いた。私は他の犬で、癌等の病気を治療するために、オイルを提供したことがあったから、スージーにもオイルが効くであろうことは容易に想像できた。彼女がオイルでノックアウトされるのを見るのは可笑しかったが、本人は全く気にしていないようだった。効果が無くなるとすぐにオイルをもらいに来て、指につけたオイルを舐めていく。我々は5日間、日に2回彼女にオイルを与えた。すると突如として、彼女は新品同様になった。彼女は再び子犬のように駆け回りだし、我々は彼女が戻ったことを喜んだ。
 10回の服用で一年以上順調だった。ある晩、息子のマイクと話していると、スージーがまた弱ってきていると言われた。その時は、彼がスージーをソルトスプリングスの別宅で飼っていた。それで私はオイルのチューブを一本彼に持たせ「どうすればいいか分かるな」と言っておいた。しかし、彼がそれをスージーに与える前に、彼女は死んでいた。私は人々にこの治療薬のことを話す時、良くスージーを引き合いに出して言ったものだ「よく犬の方が人間よりも断然賢いと言われるけど。犬は病気の時、オイルをもらいに来て指を舐めていく、犬には自分の身体に何が良いか本能で分かるんだ。人間にそういう感覚が無いのが残念でならんよ。」このように言うと多くの人達が食いついてくるので、私の主張を納得させる一助となった。犬の感覚は鋭いので、スージーに低級なオイルを与えようとすると、彼女は見向きもしないのだが、高品質なものを彼女の前に出すと、瞬く間に舐めてしまうのだった。
 バナナボートから振り落とされて、目覚めた者は、人に対してとても厳しくなり得る。私は世界で起こっていることに完全に醒めてしまったが、なぜもっと多くの人が物事を変えるために何かしようとしないのか理解に苦しむ。インターネットを見れば、我々が破滅の道を歩んでいることの証左には事欠かない。それなのにほんの僅かな人しか気にかけていないようだ。私はなぜ人々が反応しないのか不思議でならないし、その理由を探ろうとすると非常にストレスが溜まる。常々「自分自身を教育しよう」と皆を鼓舞しているが、それをしようとした人間の中には、直面した情報に、簡単に対処できない者もいる。多くの人にとって、それらが与える恐怖は大きすぎて、絶望の鬱状態に落ち込んでしまう様だ。それは明らかに私の意図する所ではない。だから圧倒されると感じる人には、もっとゆっくり進むよう奨める。全体を把握する為に自分自身に時間を与え、対処できるペースで学習を進めると良い。何も一週間以内で我々の世界の過ちを全て見つけ出す必要など無いのだから。
 2008年夏までに、私は電話を寄越す患者達の質問に答えるため、毎日何時間も費やしていた。電話はどこからでもかかってきた。多くの人々が私の電話がいつも混み合っているといって私に腹を立てるのだが、それは私のあずかり知るところではない。このような電話をいつも私が受けていることもあり、私と話がしたい人達は、電話を掛ける代わりに、単純に私の自宅を直に訪問するようになっていた。
 これら全てが私に大きな重圧となってのしかかってきていた。現実には、私の一人舞台なのだ。確かに私の周りには素晴らしい人達がいて、この活動の為に骨身を惜しまず頑張ってくれている。だが、最終的に治療薬を探す人々がくるのは私の所であり、患者と直接やり取りするのは私の役目だった。リック・ドゥワイヤーのような支持者はこれを続けるために、どれほど私がストレスを受けているか見ていたので、ある日私に「リック、あんた死んじまう前に、これをやめなきゃいかんよ。」と言ってくれた。「もしお前さんが苦しみながら電話の向こう側にいたとして、私に受話器を取って欲しいかい?」との答えに、彼は自分の言ったことを考え直すはめになったのだが、それでも彼は絶対的に正しかった。権威のある人達からの手助け無しには、遅かれ早かれ、この活動のせいで私自身の健康が危険にさらされることになるだろう。だがどうしろと言うのだ?
 その年の8月には、必要としている人達にオイルを供給することさえ難しくなっていた。前月までに、私の家から半径80kmの高品質なバッツは、全て私が買い占めていた。我々の地域には最早何も残っていなかった。それで私は掛かってくる電話に、治療に必要な大麻は自分自身で探してもらわなくてはなりません、と言う他なかった。多くの場合、彼らは言った通りにし、私は彼らの為に治療薬を作成した。しかしながら、私はこの方式を気に入らなかった。最初の頃は、売人達はよく患者達をぼったくっていたからだ。時々、人々が何千ドルも払って買った大麻バッツを1パウンド持って、家の玄関を訪れる。しかし、そのバッツは治療薬を適切に精製するのに必要な品質を満たしていないことがあるのだ。
 私にとっては良い大麻を見分けるのは、非常に簡単だ。自分が探している物が何なのか知っているのだから。だが、不幸なことに、自分の為に手に入れようとしている人達はそうはいかない。私が何をしているのか知ってから、ほとんどの売人達は真っ当になり、最高の物を供給するようになった。彼らはそれが癌の治療に必要とされていると学んだのだ。売人によっては、自分達より他の供給者の方がいい物を持っていると感じた時は、患者をそちらに送る者さえいた。私が他の栽培者達から大量に大麻を仕入れ始めた時、それがまだ湿気ている状態でも彼らは私に売ろうとした。私は提供者に「もし、完全に乾いている物を売る意志が無いのなら、あんたとは取引できないよ。」と言ったものだ。
 最終的に彼らはそれに応じてくれた。私が言い値で買わなければならないとしても、少なくとも彼らが供給する物はちゃんと乾燥済みだった。彼らは自分達の商品を路上で売ろうとしなくて済むし、私は即金で支払ったので、栽培者は私と取引したがった。彼らが良質の大麻を栽培した時は、通常、私は作付け全てを買い上げて、治療薬に変えた。私はオイル生産人で、良質の薬用大麻を栽培する相当数の供給者を知っていた。そんなこんなで多くの場合、私は栽培者と患者の仲介人になる寸法だった。私の経験では、この役割がしっくりきていた様で、患者も栽培者もこのやり方を歓迎している様だった。
 この治療薬の製造において、二回のバッツの〝洗濯〟で得られる高品質のオイルは、乾燥された1パウンドの原料当り60gである。大麻の品種によっては多くのオイルを産する物があり、また逆もしかりである。もし、乾燥された良質の原料から60gのオイルが得られたら、喜んでいい、支払った額に見合う価値はある。
 2008年、自宅裏の小さな谷が氾濫し、その年の私の作付けを実質全て台無しにしてしまった。幸運なことに、私より良い収穫を得た他の栽培者を知っていたし、私はそれらを必要とされるものにいつでも変えることができた。どちらにしろ、洪水が起こらなくても、あまり違いは無かったかもしれない。〝衝撃と恐怖〟作戦のボーイスカウト達がまたぞろ来ていたからだ。2008年の晩夏、警察はヘリコプターで谷を行ったり来たりし、私の裏庭で3度ホバリングした。洪水が起こらなかったとしても、この働き者の公僕達が収穫を盗んで行っただろう。私は防弾チョッキと黄色いストライプのズボンの連邦警察が可哀想だとさえ思えてくる。母なる自然に彼らの御株を奪われてしまったのだから。
 連邦警察と軍隊は、私が住んでいる地域を捜索するのに並々ならぬ執念を燃やしている様だった。裏庭で地上数メートルのところでホバリングするくらいに。だが不思議なことに、私からオイルを手に入れていく患者は、私の敷地を離れる時、誰一人として止められなかったし、妨害も受けなかった。傍目にも、未だ私がオイルを供給しているのは明らかだったのだが。私の庭はよく、車で完全に一杯になっていたし、絶えず患者が家に来ていた。思うに、もし連邦警察がオイルを手にして私の家を去っていく癌患者を止めたら、法廷で非常に醜い事態を引き起こすことになっただろう。きっと、このような恥辱を避けるため、彼らは鳴りを潜めて、薬を持って家に向かう患者を邪魔しないことに決めたのだ。連邦警察がヘリをブンブン言わせて飛び回わる前に、私は原料を供給してくれる他の栽培者の所に向かっていた。治療薬を待つ患者のリストを数週間分遡ったが、私はなんとか間に合わせることができた。こうしてまた聖戦は続くのである。